見出し画像

さらば青春の三中

中学校3年の夏の夏の終わり頃から格闘技と言うものに真剣に興味を示すようになる。同世代の友人達と価値観が別れ始めたのがこの時期だったのかも知れない。
写真は学級委員長のトシキ君と。

勉強

だんだん勉強しないとヤバイぞと思い一つ年上の秀才に週一で家庭教師にきてもらう事になった。現状のままでは志望校の合格は厳しいと担任の先生には言われていた。

確かに遊び過ぎていた。ゲームはこの時代、スーファミ、PCエンジンに、メガドライブと3大メーカーのものを持っていたしマンガもたくさん持っていた。自転車を改造するのが好きで全塗装したりハンドル曲げたり余計な事に時間を費やしていた。

勉強に関しては集中力が無かったと思う。
部屋の中は誘惑だらけで気が散ってしまうのだが来年高校受験の自分の長女を見ていると自分のそれにそっくりだ。幸いな事に娘は自分と違ってまぁまぁ優秀ではあるのだが。

POWER OF DREAM

F-1レーサーを目指すベーサトと一緒に金峯山を自転車で登りコーナーリングの練習の為に下るとか意味のない事をしたりもしていた。
新しく出来た小真木原体育館のトレーニングルームにはマシーンのウェイト設備があってそこで筋トレもした。
そもそもやり方が解らなかったのでどっちがどれだけ上がるかみたいな事をやっていただけなのだが強くなれてるような気分を味わえた。

学校で流行って盛り上がっていたプロレスだったが俺がUWF(第二次)こそが本物だとかプロレスは八百長だとか言い出した事もあって三中の中でのプロレスブームは終息していく。

小学生の頃、新日にUWF勢が参戦しているのを見ていた親父はUWFの連中は蹴りばっかりで面白くないと言ってたけど自分の体験談からロープに振られて走る必要はないし結局打撃を打てば良いのではと思ってWWF(現WWE)まで熱心に見ていた俺なのにどんどん方向転換していったのだった。
好きな選手は山崎一夫さんだった。

プロレスを流行らせたように皆にビデオレンタルで第二次UWFを勧めるたのだが受け入れてはもらえなかった。

読んでいた雑誌は週間ゴングから格闘技通信へと変わり、ボクシングマガジンも読むようになっていた。気がつけば少年ジャンプから少年マガジンやヤンマガへと読むマンガも変わっていた。

ベーサトの家には衛星放送があったのでwowwowで放送されたリングスの旗揚げ戦で盛り上がり、その後、大会がある度に観に行くようになった。

F-1を目指すと言う明確な夢を語る親友に対して対抗できる夢が欲しかった。
その頃は格闘家と言うワードがまだ無く、UWFって学校の先生になんて言えば良いのか?と周りの友人達に言うとプロレスラーじゃね?と言うし自分的にはプロレスでも無いんだよなぁと思いつつもやりたいと思うのはU系だった。
もちろん当時はガチの格闘技だと思っていたからだ。

前田日明さんのPOWER OF DREAMを読み衝撃を受けた。自分がやってたような喧嘩のレベルじゃねぇ〜すげぇ〜と。自分にとって前田さんは神格化していった。

受験と卒業


高校受験は第二志望はなく単願で西高を受けて背水の陣で挑んだのだが人生で初めてちゃんと勉強をしたと思う。
単願で県立を受けるような奴はなかなかいなかったが落ちたらを考えると落ちそうな気がしていたのだ。

勉強の甲斐があって結果は合格だった。
高校はどこでも良かったのだが世間体を気にする親に対しての親孝行でもあった。西校だったらまぁ普通なのである。

今になって思うと何か努力をして勝利を味わったのは高校受験が最初だった。

受験も終わりクラスの仲間とは残り少ない中学生活を楽しんだ。もうこんなバラエティーに富んだ友人達と会う事は無いのだろうとこの頃は思っていた。

俺が三中の看板を背負って校外で喧嘩していた事など知らない奴の方が多かったのだが学校では友人達と馬鹿な事をやって腹を抱えて転がりまくるほど笑った。
三中と言えば他校からは戦闘力で恐れられるも実態は単純に廊下でガチ目のプロレスしていたら全体的に強くなっていっただけの話で格好つけずに好きなように生きていたからこの時期を楽しめたと思う。

あまり参加はしないのだが地元の同窓会であの頃が一番面白かったと聞く事があるが凄くそれには納得出来るところもある。

卒業式を迎えた。お礼参りしてやりたい教師が何名かいたが友人や世話になった先生との別れが寂しく、それはもうどうでも良くなった。
式の前に同じクラスの登校拒否児の小池君を迎えに行ったのだがそいつが来なかった事が心残りではあったが。

次回より高校編スタート

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?