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型枠大工再開

横浜

東京の下北沢のヨッチューの家に泊めてもらいガテン(現場作業系求人誌)を買い関東エリア全域で仕事場を探した。
D建設はスタートが日当1万で退社時の俺の日当は13000円になっていた。
ガテンを見て初任給が日当13000円のところを狙って面接に行く事にした。
選んだのは横浜のS工務店と言う会社だった。
D建設みたいな嘘の広告だったら断ろうと思っていたのだが面接担当の奥さんが良い感じであなたには是非働いて欲しいと言う。

気になったのがここは土木の型枠大工で自分達がやっていた建築とは違うところだったが俺は横浜って言う土地が格好良いなと田舎者的な憧れもありそこで働かせてもらう事にした。
土木とは公共事業が多く、D建設では越谷駅や赤羽のゴミ処理場を施工した事があった。
建築を解りやすく説明するとSRC、RC造のマンションのような建物で住居やテナント、たまに学校などの鉄筋コンクリートの建物の形を形成していくのが建築の型枠大工だ。

土木でもベニヤを使い枠を作って作業するのだがメタルという金属パネルを使ったり溶接もガンガンするので大工と言うイメージはちょっと薄れる感じがあった。
地下鉄や擁壁の仕事が主だったが S工務店でもD建設同様にガンガン働いた。

一軒家が寮になっていてそこに何人も住んでいる不思議な空間だった。
出稼ぎの多いD建設よりも真面な人が多かった。

自分のような若者が沢山入社してくる会社だったのだが求人誌で何も出来ない素人の初任給の日当が13000円だったのでその金額は当時の若者達を魅了した。
採用されても若者達はだいたい3日と保たずに辞めていったけど実は初任給が高いだけで親方連中はそれほど差のない給料と言うこの会社の求人内容のカラクリだった。
S工務店でも自分は社長や親方に気に入ってもらえたし学ぶ事は多かった。
けれど半年くらいやってみて建築の方が自分のやりたい仕事だと思ったし給料の上限も見えたので親父の家業でゴタゴタがあったのを理由にして実家に帰ると言って辞めさせてもらう事にした。

しかし本当は実家には帰らずに再びガテンで選んでいた足立区にある建築の型枠大工の会社に面接に行きそこで働く事となった。
これが地獄の入り口だとも知らずに。

明け方のサッカー


20歳くらいになった頃から実家のほうではポツポツと結婚する同級生が増えてきた。
だいたいは数年で失敗する事になるのだが結婚式があって呼ばれその度に実家に帰省するのがこの時期のパターンだった。

この頃の自分と言えば女性と話すのは給料日後のキャバクラくらいで結婚どころか彼女など出来るような状況ではなかった。
たまにヨッチューが下北で合コンみたいな事をやってくれたのだが酒を飲んで酔っ払ってヨッチューと語り合うと女性達を放って酒癖の悪い彼とトークはエキサイトして路上で殴り合いの喧嘩(俺が圧勝)に発展する事もしばしば。

そんな時期なのだが友人の1人がデキ婚をし俺はバンで鶴岡に帰ったのだが披露宴前日の前夜祭でそれは起きた。

正月にベーサトにブチ切れて以来彼とは会いたく無いと距離を保っていた。
ベーサトは誰に迷惑をかけている訳ではないが当時はロン毛で黒いアストロを乗り回しそのアストロは女子高校生達にナンパ車と呼ばれていた。
今となればどうでも良くてくだらない事なのだが無敵の三中時代を生きてきたのにベーサトが他所のエリアの同級生と喧嘩をして惨敗していたのもこの頃だ。

俺は会いたくないと言ってるのに友人達がまぁまぁと言いサーファーみたいな格好のベーサトはそこに現れた。
俺の気持ちは格闘家になりたい俺とF-1レーサーになりたい彼で語り合った中学生の頃のままだった。
とりあえず正月の件で要らない事は喋れるなと俺が牽制していたのだけど酒が廻るにつれてベーサトと一緒にいるのが嫌になってる自分がいた。

仕事も落ち着かず車はナンパ車と呼ばれ笑われ喧嘩で負けて生きてる彼に納得がいかず俺は些細な事でベーサトに絡むとやっぱり一緒にいたくないと店を出た。
外は明るくなっていた。

怒って自宅に帰ろうと歩く俺をわざわざベーサトが追いかけて来て彼は俺に向かって「俺もいろいろあって大変だったんだ」と謎の弁明をした。
小3の頃からの親友だったがその一言で俺の中の何かが壊れた。

俺の右の拳が火を吹いた。
一撃で倒れるベーサトに追撃でサッカーボールキックを見舞った。
元々そこら辺の人間より喧嘩が強くて極真空手のベースがあり更に現場仕事で毎日フルパワーで働いている俺にベーサトが太刀打ち出来るような状況ではなかった。

アスファルトに転がる彼を俺は更に踏み潰したのだがたまたまそこに通りかかった同級生に抑えられてその場は一旦収まった。
俺はそのまま歩いて自宅に向かったのだがベーサトは飲みの場に戻り一緒に飲んでいた友人達に介抱されていた。
その友人達は急に暴れた俺に怒り電話で戻って来いと言う。
俺は怒り狂っていたので戻って文句のある奴を全員殴ろうかとも思ったけど鳴らされ続ける携帯電話に腹が立ちそれを地面に叩きつけて壊した。

どんなに仕事をちゃんとしていなくてもプラプラしていてもベーサトは優しい男だったし友人達に迷惑はかけていなかった。
そんな彼を圧倒的な暴力でねじ伏せた俺は誰がどう見ても悪い奴で警察がいたら逮捕され弁護士をベーサトが雇えば俺は裁判で金を取られていただろう。

高校時代のベーサトは格好良くて俺の目の前をずっと走り続けてくれた。
夢は追えなくなっても構わない。けれど俺たち2人にしか解らない俺達の絆みたいなのは存在していたと思う。
殴った事に後悔はなかった。むしろ正しいとさえ思っていた。
俺は今のお前は過去のお前が見たら絶対に怒るだろうと確信していた。
俺はの拳は高校生の頃に一心不乱に夢を見て頑張っていたあの頃の自分自身の拳だったはず。

そんな思いとは反対にベーサトが頑丈で大怪我しなかった事で俺は救われている。
ニュースでちょっとした暴行で亡くなったと言う話を目にする事がある。
あの時、ベーサトに何かあれば今の俺はいなかったのである。
当時はそんな事を全く気にせずに自分のルールだけで生きていた。それは単純に運が良かっただけだと今になれば思う。

足立区

新しく勤める会社、足立区のK工務店は加平インターすぐ近くの環七沿いのマンションの部屋が会社になっていた。
今になれば奇妙な会社で8Fに社長の大家族の部屋、6Fと4Fに一部屋づつ会社の寮があり3LDKに多い時で8人も住んでいたが青森出身者が多かったと思う。
そんな風に物件を使っているくせに賃貸で借りている物件であった。

何故この会社を選んだのかと言うと近くにトモちゃん(極音レーシング初代総長)が住んでいて今まで住んでいた場所が友達のいる環境じゃなかったから、友人がいるだけで少しプライベートが充実するのでは?と期待したのだった。
求人誌ではどこが良いのか全く解らないので少しでも良いポイントがあればそこに決めると言った感じで会社を選んだ。

朝は肌寒く秋になる頃だ。
最初の現場は四つ木のマンションだった。
建築の型枠大工の仕事になるが出稼ぎ爺さんを多く雇っていたD建設より圧倒的に仕事のスピードが速くて正確でカルチャーショックを受けた。
D建設は工期に間に合わなかったり仕上がりも悪く、よく失敗する会社だった。
話を聞けば入ったK工務店はD建設と同じ親会社の仕事も受けていた事もあり、その時にD建設は一つのマンションでだいぶ失態をかましてしまい一発アウトになっていた経緯があった。
反対にK工務店は何件もその親会社の仕事をこなしていたのでそもそもの仕事のレベルが違っていた。

心機一転、図面の見方から基本から色々と学ぶ事が出来た。
相変わらずフルパワーで働いているとベテランの職人さんに「20年以上働いているけどお前ほど力のある奴を見た事がない」と言うお褒めの言葉を頂いた。
確かに休憩所で鉄筋屋や鳶と腕相撲すると俺はいつも勝っていた。
この頃はウェイトトレーニングはしていないけど腕力に関しては格闘家の現役のピーク時よりあったと思う。
力だけじゃ駄目なので仕事が終わった後も図面を部屋に持ち帰り勉強をした。仕事で解らないものを誰かに聞かなければ解らないと言う状況が嫌だったのだ。

同級生とGSX-R

近所になったトモちゃんとはたまに会うくらいだった。
ホスト王はとっくに諦めて営業の仕事をしてプライベートもいろいろあり大変そうで前のように一緒に騒いだりは出来なかった。
ケンヤは俺が横浜に住んだ同時期に同じ横浜の港南区の会社に移っていた。
皆が上京して2年くらい経つ頃になり抱いていた夢は現実に打ちのめされ東京で無力さを知り始めていた。
専門学校などが終われば地元に帰る人間もだんだんと増えてきた。
整備士になりたい。空手をやりたいと上京したのに全く違う事を俺は続けていたのだけど、仕事を極めたいと一心不乱に働いていたのでやっている事にはそれなりに誇りを感じていた。

足立区に来た時点で車は駐車場等の問題で維持できなかったので手放していた。
正月からエンジンを改造中だったGSX-Rはヒデカズさんにとって自分は身内みたいなものだったので他のお客さんが優先で後回しにされてだいぶ時間がかかったけど完成して足立区に届けてもらった。

この時のGSX-Rはジョニーズでアルバイトしていた時に自分で紫メタリックに塗装しエアブラシでイナズマを書いていた。
更にはシングルシートを付けてより戦闘的な外装になっていたのだが残念な事に写真は一枚も撮っていない。
ボアアップしたのにキャブがノーマルだったのだがヒデカズさんはエアクリをちょっと加工してキャブのメインジェットの番数を一つだけ上げておいてと言い残して帰って行った。
これがGSX-Rの不運が始まるきっかけになった。

セッティングが出ていなくて低速がスカスカになっていたもののバイクが戻って最初に松戸に遊びに行った。
足立区からはそれほど遠くない。
タカヒロ君達とは一年近く会っていなかった。
2ヶ月田舎にいた以外はずっと型枠の仕事をしていたので会話は仕事の話ばかりだったけどD建設をやめた時より自分はもっと仕事が出来るようになり変わらずガンガンやっていますよと伝える事が出来たとは思う。
その後松戸には何度か泊まりで遊びに行った。

GSX-Rのキャブのメインジェットの番号を一つだけ上げておいてくれとヒデカズさんに言われたものの大きなマンションの駐輪場にバイクを置かせてもらっているような状況でバイクを弄るような工具も持って来ていなかったし、そのような事をする場所もなかった。

近所に店頭に沢山バイクを置いたバイク屋があったのでそこに行ってメインジェットを一つだけ上げて欲しいと依頼した。
自分と年齢の近いあんちゃんとオーナーのおっさんとちょっと上ぐらいのお兄さんがお店のメンバーだった。
実は関東のバイク屋に行くのは初めてで松戸にいた時は自分でパーツ屋に行って部品を買って組んだりオイル交換をしたりしていた。
上京当初に行ってみたかったサンクチュアリと言うカスタムショップは雑誌を読み過ぎたせいで憧れが無駄なリスペクトになってしまい緊張して前を通るだけで十分だった。
後にこの現象は格闘技に置いても同様となる。

若いあんちゃんはそれを引き受けて一週間後くらいにバイクを引き取りに行った。
あんちゃん「もともとのメインジェットの番数を下げてないですか?だいぶ低い数値が付いてます。」
全く下げる必要は無かったしヒデカズさんはそのような事は言ってなかったので下げて無いですと答えると「う〜んメインジェットの番数を上げましたけど、もっと濃くした方が良いですよ」と言うあんちゃん。
オーナーもうんうんと頷きもう1人の兄さんが会計ですよと言った額が25000円だった。

キャブ開けてジェット交換だけで25000円ってエグいな〜どうにかして自分でやれば良かったなと思いつつつも、そのあんちゃんはばっちりセッティングしておきましたと笑顔で言うので工賃を払い乗って帰った。

休日がきて松戸に向かっている途中にバイクは止まった。

そもそもバイク屋に預けてから調子が悪くなっていたのだがエンジンのかからなくなったバイクを環七で引っ張って歩いてマンションに帰り車載工具を使ってプラグを外すとプラグは真っ黒になってカブッテ止まったのだった。
メインジェットは一つどころか遥かに高い番数が付いていたのだった。
あのバイク屋…

バイクは走らないので歩いてバイク屋に行って苦情を伝えたのだが、そんなはずはないと3人で答える。
またバイクを見ますか?とか言うが再びめちゃくちゃなセッティングされて高い工賃払わせられるのも嫌なので金輪際この店とは関わらないようにしようと思った。
もういいですと俺はこの店を去った。

GSX-Rは今後どうすれば良いかは保留となり俺の翼は捥がれた状態になってしまった。
こうなるとプライベートでの移動はだいぶ制限されてしまうが仕事が忙しくて自分もまだまだ未熟だったのでバイクの事は考えないようにしながら一生懸命働く事だけに集中をした。

今になってみれば当時最先端だったバイクのエンジンチューンなどせずにキャブレターだけをヨシムラのものに変えれば良かったのにと思うのだがこの判断の間違いと変なバイク屋に当たってしまい、バイクが動かなくなってからが我が人生最悪な時期に突入して行くきっかけになるのだ。

ベーサトと俺

その後、読んでくれている方のほとんどの方が知っている通り俺はプロ格闘家としてデビューしてそれを生業としながら活動、格闘技がきっかけで出会った妻と結婚し、自分のジムをオープンてから引退した。
結果的に中学校時代にベーサトと語り合った夢は叶ったのだった。
彼は試合する俺の事をずっと応援してくれていた。
俺が殴った後に目が覚めて真面目に働くとか言うストーリーはなかったのだが、その後パチンコにハマったりしながら時間はかかったけど何年もかけてやっと現場仕事に落ち着いた。
今ではベーサトは若い子達を雇って自分の看板を掲げている。
その背景にプロ格闘家として戦っている俺に負けれないとか思ってくれていたのなら俺は嬉しい。

2015年8月9日、ベーサトは年下の綺麗な嫁さんと結婚する事になりその披露宴に呼ばれて行った。
沢山の仲間が集まり彼を祝福していたのが嬉しかった。
俺はスピーチを頼まれていたので俺達の物語りを話して昭和通りでの暴行を皆の前で謝罪した。

俺は彼と過ごした幼少期があったから今の自分があると思っているしその事に感謝している。

ベーサトとその母のユーコさん

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