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スポメニック巡礼(上)

スポメニックとは

 スポメニック(Spomenik)とは、旧ユーゴスラビア国家に点在する巨大彫刻群を指す。クロアチア、スロベニア、セルビアといったバルカン半島諸国の辺境に、様々な形のものが存在する。旧ユーゴの暗い歴史に立脚したモニュメントであり、慰霊碑だったり戦勝記念碑だったりと、それぞれに意味が込められている。

出典: ドナルド・ニービル『スポメニック: 旧ユーゴスラヴィアの巨大建造物』グラフィック社 (2020)

 私がスポメニックを知ったのは、今から10年ほど前。たしか「らばQ」というまとめサイトだったと思う。世界の面白いものを写真付きであれこれ紹介するサイトで、暇つぶしによく読んでいた。そんな中、私はある一枚の写真と出会う。

出典: https://www.jankempenaers.info/works/1/

コンクリートでできた巨大な彫刻。中央は眼球のような形をしており、眼球の両側には翼のようなものが非対称に生えている。まるでエヴァの使徒のような禍々しい見た目である。背景に写るのは山脈のみで、辺境に建てられていることが一目でわかる。この写真は、当時の私に小さな衝撃を与えた。こんな異様なものがこの世界には存在するのか、と。

実際に現地に行ってみた

 その後 約10年間、この写真は私の記憶の片隅に放置されるわけだが、2022年秋、ドイツの研究所に滞在していた私は、ふとその存在を思い出す。ヨーロッパにいる今なら、もしかしてアレを見に行けるのではないか…?辺境旅行と巨大建造物が好きな私にとって、スポメニックはその二つを満たす完璧な存在だった。一方で、例の写真の巨像はクロアチア奥地の村落にあるらしく、到達難度は極めて高い。一生に一度行けたらいいけど無理だよな、というウユニ塩湖的存在でもあった。今ならそれが実現できる。なんとしても見に行きたい…!私の冒険心がかつてないほど燃え上がった瞬間だった。

 研究所でのプロジェクトがひと段落し、少し長めの休暇を取った私は、スポメニック巡礼の旅に出た。まずはドイツからオーストリアを経由して、スロベニアまで夜行バスで8時間かけて移動した。

夜行バスの車窓から。夜の高速道路を眼下に、心地よいまどろみに包まれる。

 翌朝、スロベニアの首都リュブリャナに着いた私は、曇天の街並みを抜け、予約したレンタカーショップへ向かう。スタッフから簡単な説明を受けたのち、赤い小さなマニュアル車を借りた。

ヨーロッパは、左ハンドル・右車線・マニュアル車が標準である。つまり、何もかもが日本と逆になっている。そのため、リュブリャナの小さな市街地を脱出するだけでも割と命懸けだった(逆走とエンストの可能性に怯えながら、頭をフル回転させてなんとか切り抜けた)。それでも高速道路に入ってしまえばあとは楽で、山中の風景や料金所のゲートを眺めながらのんびり走り続けた。途中でなぜか、関越道あたりを走っているような錯覚を覚えた。

サービスエリアにて休憩。雨がしとしと降っている。

 早々にスロベニアを抜け、クロアチアへ入国する。当時のクロアチアはまだシェンゲン協定加盟国ではなかったため、入国時にはパスポートチェックがある。高速道路の料金所みたいなゲートに並び、ドライブスルー式にパスポートにスタンプを押してもらう。この時、列を待っていた私のレンタカーは、なんと後続車からぶつけられ、しかも当て逃げされてしまった(追突されたときのガシャン!という衝撃は今でも鮮明に覚えている)。幸いにして車のキズは小さかったので車両保険により事なきを得たが、私の初めての交通事故がまさか海外、それも国境の上だなんて誰が思っただろう…

証拠写真。本当に焦った…

 紆余曲折がありつつもスロベニアの国境をなんとか抜けて、クロアチアへ入国する。私の目指すスポメニックは、ポポヴァチャ(Popovača)という小さな村を、さらに10 kmほど北上した集落にある。ひとまず今日は、そのポポヴァチャ村で一泊することにした。国境からさらに100 kmほど東へ走り、Booking.comで見つけた安宿にチェックインする。

見ての通り、観光地では全くない

 古い木造アパートの一室に荷物をおろし、ひと休みする。涼しい秋の昼下がりだった。ドアを開け放ち、穏やかな風を部屋に招き入れる。するとそよ風と共に、子猫が2匹、外から入ってきた。猫たちは泥のついた四つ足でベッドの上を歩き回り、我が物顔でくつろぎはじめた。シーツにいくつかの足跡が付き、狭い部屋は一転して野生のにおいで満たされた。彼らの遠慮のなさから察するに、ここではそれが日常なのだろう。「東欧は犬や猫が多い」と聞いたことがあるが、どうやら本当らしい。この後も私は、行く先々で多くの犬や猫と出会った。彼らはみな放し飼いで、フレンドリーにこちらに近づいてくる。

かわいい
かわいい

 少し時間があったので、散歩に出てみる。旧共産圏の退廃的で美しい風景が広がっている。

観光客は、私以外に一人もいない。こんなところになぜアジア人がひとりで…と、誰もが私をまじまじと見つめてくる。

 夕食の時間になったので、村のはずれにある小さなバルに行ってみた。バルは英語が通じなかった。私はよくわからないままピザとハイネケンを注文した。運転(と事故処理)の疲れもあって、その日は泥のように眠った。

Dobar dan!(こんにちは) Hvala!(ありがとう)

 翌朝、ポポヴァチャ村は深い霧に包まれていた。今にも降り出しそうな曇り空だ。赤い車にエンジンをかけ、村落を北上する。山をいくつか越えながら、スポメニックのある地点を目指す。湿った草木を眺めながら、曲がりくねった道を進んでいく。

後編へ続く


イエローページ vol.38(2023/3/28)にて掲載
2024/7/16 加筆修正