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トヨタは特許収入を従業員と分け合ったという話

こんにちは。

 トヨタは、誰もが知っているグローバル企業です。ところが、トヨタはもともと織物機の製造・販売を行っていたということを知っている人は少ないかもしれません。

 世の中のためになることをすれば利益につながるということは、過去、現在、未来を通じても変わらない真理とされています。

 1885年(明治18年)、トヨタグループの創業者である豊田佐吉は、「専売特許条例」を知り、これからは特許の時代がくると予想して朝から晩まで発明に没頭しました。

 1890年(明治23年)に佐吉は「豊田式木製人力織機」を完成させ、はじめての特許を取得しました。その後も佐吉は、完全自動織機の完成を目指した結果、1924年(大正13年)に「G型自動織機」を発明して特許を取得しました。

 このG型自動織機に非常に関心を示していたのが、イギリスのプラット社でした。すると佐吉の息子である喜一郎は、1929年(昭和4年)に、総額10ポンド(およそ100万円)でそのG型自動織機の特許をプラット社に譲渡しました(特許権譲渡契約の締結)。

 当時の10万ポンドは、現在の貨幣価値に換算すると、なんと約30億円に相当します。

 では、この特許収入はどのように使われたのでしょうか。この点については、以下の著書に次のように書かれていました。

 1931年春、豊田経営陣は、このプラット社からの契約時支払金2万5000ポンドのうち10万円を、発明を生み出した関係者に、15万円を豊田紡織、豊田自動織機製作所、豊田押切紡織、豊田菊井工場、中央紡織、庄内川染工場、上海紡織等9工場の従業員6000名に特別慰労金として分配された。
 6000人に対して15万円が分配されたのであるから、1人平均25円であった。女子行員の平均給与が28円の時代であるから、この特別慰労金は大いに歓迎された(157頁)。

 当時、経営の悪化とリストラによる従業員のモラル低下を何とかしたいという思いで、破格の大金を従業員に配ったというのです。

 時代が進み、トヨタは日本の製造業をけん引する存在となりました。

 そんなトヨタに関しては、内野事件(名古屋地判平成19年11月30日労働判例951号11頁)も有名です。

 過労な仕事によって30歳の内野健一さんが亡くなり、妻の博子さんが、豊田労働基準監督署を相手に労災と認めない判断(不支給決定)の取り消しを求めて訴えたのです。名古屋地裁は、健一さんの死が過労死であったと認定しました。

 日本では、仕事とは関係がないといいながらも、実際には強制的に行わなければならない仕事がたくさんあります。そんな時には、お金だけでなく、「時間」という資産を従業員に配るということが、現代社会において求められているのでしょう。

 では、今日はこの辺で。また。


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