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無礼者には法律も味方しない

 こんにちは。

 「何よりも信頼が大切だ!」と、以前からビジネスの世界では繰り返し強調されてきました。実際に、以下の著書による研究成果では、会社に相手の信頼を損なう態度をとる無礼者がいると、周りの人に対して①健康を害する、②経済的損失をもたらす、③思考力や集中力を下げる、④認知能力を下げる、⑤攻撃的にさせる、などの悪影響があることが指摘されています。

 たしかに、「おまえは無能か!辞めちまえ」と言われたら、内心では「仕事を全力でこなすのは無理だな、ちょいと手を抜いておくか」といった気持になりますよね。

 また、以下の著書では「悪は徒党を組むが、誠実な人は決して徒党を組まない」と書かれています。

 心が腐っているかのような言動をする人々は、総じて徒党を組む。そして邪魔となる正しい言動をする人々や、何もしない・できない善良な人々を攻撃したり、圧をかけたりする。
 そうして無理矢理、自分たちを認めさせたり、保身を図って自分たちの居心地のよい状況をつくろうと奔走する。
 一方、利他の心をもって生きている誠実な人々は、数の威勢を誇ったり、その筋に圧をかけることなど、いっさいしない。そして自分一人でも世のなかを変えようと努力し、やがて意図しなくても誠実な人々のネットワークが形成される。(73頁)

 同じように法律でも、相手の信頼を損なわないように誠実に行動することが求められています。

民法1条2項
権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。

 この規定は信義誠実の原則(略して信義則)と呼ばれているのですが、かなりざっくりとした規定ですよね。しばしば契約書の中でも「この契約の解釈をめぐって紛争が生じた場合にはお互い誠実に協議・解決する」といった条項が入っていることが多いです。 

 なぜ、このような規定が必要だったのでしょうか。もともと民法典は1898年に施行されたのですが、そこには信義誠実の原則の規定は存在しませんでした。しかし、約50年経過した1947年の民法改正によって、この規定が追加されることになりました。

 1900年代初頭の日本の様子を知るうえで、渋沢栄一の『論語と算盤』(1916年)が参考となります。

商工業者が、互いに個人間の約束を尊重し、仮令、その間に損益はあるとしても、一度約束した以上は、必ずこれを履行して前約に背反せぬということは、徳義心の鞏固(きょうこ)なる正義廉直の観念の発動に他ならぬのである。しかるに、わが日本に於ける商工業者は、なおいまだ旧来の慣習を全く脱することが出来ず、ややもすれば道徳的観念を無視して、一時の利に走らんとする傾向があって困る。欧米人も常に日本人がこの欠点あることを非難し、商取引において日本人に絶対の信頼を置かぬのは、我邦の商工業者にとって非常な損失である(246-247頁)

 日本で商売をしていた外国人が「何で日本人は約束を守らないんだ。儲かったら何でもありなのか?」と言われたことに、渋沢は非常にショックを受けたようでした。

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余は、1個の実業家としても、経済と道徳との一致を勉むるために常に論語と算盤との調和が肝心であると手軽く説明して、一般人が平易にその注意を怠らぬように導きつつあるのである。(137頁)

 渋沢は、当時の日本人に対して「お金儲けのノウハウ」と「誠実さ」の両方を兼ね備えるべきだと説いていたのです。 

 すると大審院(戦前の最上級審)も、相手の信頼を裏切らないように誠実に行動することが大事であると、日本で初めて宣言しました。

【1920年12月18日判決】
(一度売却した不動産について、売買代金と契約費用を返還することによって取り戻す特約を意味する)買戻しについて、契約費用がわずか2円8銭不足していたという理由で買戻しができないと主張することは、信義誠実の原則に反する。よって、買戻しは可能である。

 買戻しに必要な契約費用が不足していれば、法律上は買戻しができません。ところが、土地の売主が再三にわたって「契約にかかった費用を教えてくれよ~」と尋ねていたにもかかわらず、買主がそれを伝えなかったことが原因で、支払った買戻し金額にわずか2円8銭の不足が生じました。大審院の裁判長は、契約費用を伝えなかったにもかかわらず、「2円8銭が足りん」と大騒ぎする無礼者には、法律は味方をしないと宣言したのです。

 その後も、多くの裁判長はこの信義誠実の原則を適用していきます。

 例えば、大阪地判平成元年4月20日では、一度他人に贈与した物は取り戻すことができないとする規定とは異なる解決をしています。

<民法550条>
書面によらない贈与は、各当事者が解除することができる。ただし、履行の終わった部分については、この限りでない。

 ある父親が、「娘の旦那が歯科医師になれば娘を幸せにしてくれるはずだ」と期待して、758万円を娘の旦那に贈与しました。ところが、その旦那は歯科医師試験に合格するやいなや、不倫の事実を明らかにして離婚を申し出たのです。

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 裁判長は、このような無礼者(信頼を裏切る者)に対して信義誠実の原則を適用することで、父親による金銭の返還を可能にしたのです。

 しかしその反面で、信義誠実の原則によって法律を無視できてしまうという点には危険な側面があります。実際にドイツでは、経済的危機や政治的に混乱している時期に、信義誠実の原則が数多くの事例で適用されました。

 第一次世界大戦後のドイツでは、ハイパーインフレが起こります。250マルクのパンが、1年以内に150万マルクに跳ね上がったのです。すると150万マルクを貸していた人が、そのまま150万マルクを返してもらったとしても、パンを買える程度のマルクしか受け取れないので、大損をしてしまうことになったのです。そこで、ドイツの裁判所は信義誠実の原則を適用して、ハイパーインフレに対応した金額で返済することを命じたのです。

 さらに、ナチス政権になると、ユダヤ人が企業に求めていた退職年金の支払いについて、信義誠実の原則を適用することで、支払いを認めないという判決まで登場していたのです(22頁)。

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 賢者の石とは、鉛から金を作るための触媒だとされています。ここから、信義誠実の原則が法律の世界における賢者の石だと表現する人もいます(8頁)。

 信義誠実の原則は使いようによっては、血も涙もない法律に血肉を通わすことができる反面、悪用される危険性もあります。そのため、今後も注意を払いながら、監視していくことが重要でしょう。

 では、今日はこの辺で。また。


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