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愛する、ってなんだ

恋にばっかり、恋をしていた。
刺激が欲しくて恋心を焦がしていた。

「嫌い」という言葉が、嫌いだ。

「嫌い」という感情を葬って、感じないようにしている。その方が生きやすいからだ。
嫌いなものには見向きもせず、触れもせずミュートする。眼中にも入らない。お前(嫌い)のことを考える時間なんていらない。

好きという気持ちだけを原動力にし、大切にしていく。私は人よりも「好き」を感じやすいのだと思う。勘違いしやすいともいうのだろうけど。

初めての「好き」

私が「恋愛感情」というのを覚えたのは、小学生の頃に読んだ少女漫画だった。
王子様がお姫様を迎えに来てみたいなプリンセス系や、強気なツンデレ彼と王道アイドル系彼が取り合いする三角関係系など。
「好き」というのは心がときめいて、キュンとなぜだかするもの…!
幻想的な妄想を抱いていた小学生時代だった。

だが実際はそうではない。
キラキラきゅんきゅんの世界ではない。
初めて「恋する」という「恋愛感情」を覚えたのは小学五年生である。

女の子を好きになった。

あの日から、私は女に恋をする女なのだと自覚した。そして、「好き」と言う感情を覚えた。

自分や家族以外の人を思い、無性に会いたくなってしまう。会えてない時間もその人のことが頭から離れない。それが「好き」なんだ、と。

中学〜高校生の「好き」は、恋に恋をしていた

年上の人が好きだった。
自分がいたいけな小娘ということもある。

キラキラしていて天真爛漫で、顔も好みで、男勝りな格好良さの中に女性的な雰囲気を持つ人が好きだった。「ギャップ」にとにかく弱かった。

なぜ、あんなにギャップに惹かれるのか。
普段おとなしい子が行事で燃えている姿とか、勝気な子が泣いてしまう姿とか、そんなありきたりなことですぐに恋に落ちていた。

特段告白をするわけでもなく、ただ恋心を燃やしその、恋に恋していた。

大学生の「好き」は、人に依存していた

大学に入って、夜遊びをはじめた。
レズビアンが集まるバーやクラブに足繁く通い、大変楽しんだ。

はじめての恋人ができた。

とても優しい人だった。愛をたくさん与えてくれる人だった。その人の優しさに甘え、散々なことをし、振り回していたと思う。

その人の優しさと愛に依存し、恋人関係という関係をいいことに、寂しさや悲しさ、物足りなさをぶつけていただけだった。

依存というのは愛する、だったのだろうか。

振られても振られても愛し続けた「好き」

恋人と別れたあと、顔も性格も好みの女の子と出会い、恋をした。めちゃくちゃ振られた。でもめげずに友だちとして、しばらく続けていた。

憧れもあった、あの人は格好良かった。武士のような人だった。

長らく(私にしては)思い続けてやっと実り、付き合うことができたのだが、惜しくも一瞬で終わった。

あの時の私も、「愛する」がわからなかったのだと思う。

「好き」という感情を相手にぶつけて反応を伺い、キャッチボールを続けることで距離を詰める恋愛攻防戦に立っていた私は、恋人として「愛する」ということが欠如していた。

相手のことを考え、会いたいと思う。可愛いと思う。これがあっても、相手の立場に立って考えることがなかった。独りよがりの好きばかりを放っていた。

この時、人と付き合うのはなんなのか、本気で考え、あまりにも幼稚な自分の恋愛に対し、ひどく落ち込んだ。

愛するって、結局

今もまだわからない。模索中である。

恋人との別れを繰り返し、恋愛が長く続かない自分に非があるのだと向き合い直した。

相手の顔が好き、声が好き、話し方が好き、仕草が好き、考え方が好き。好きな人の好きなところなんていくらでも上がるだろう。

この自分の「好き」という感情だけで続く恋人関係は、きっと恋愛ではないのだ。

一緒にいて楽しい、価値観が合う、話が尽きない、笑いのツボが合う。こういう好きなところだけでも通用しない。

その人の求めていることは何か、どんな言葉をかけたら影響を与えることができるのか、反対に与えてしまうのか、どんな闇を持ち、何に喜びを見出すのか。もっと、深いところを知ること。

ダメなところや弱いところも享受し、どの姿でも愛していると心から言えること。

相手のことを信用する、ではない。
自分がその人を「愛している」、これだけを信じること。

それが今の私にとっての「愛する」だ。

きっと、また変わるだろうけど。

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