素と演技

とある物語を読んでいる時にふと思ったこと。なので読んでいてわかりにくいかもですが、自分の中ではちょっと考えたいことなので書きます。


その物語の主人公の男の子は、基本的に演技がかった言動をする子だった。何となく演技がかっているけれど、でも周りに見せる彼の言動はずっと「そう」だから。「彼はそういう人だ」と周りは認識していて、おそらく彼自身も「自分はそういう人間だ」と認識している。そんな感じだった。

演技がかった喋り方をするのが彼で。動作がいちいち大きいのが彼で。それが彼の素であり、無理も何もしていない普通の姿。そう周りも彼自身も認識している。そんな感じだった。

ただ、物語を読んでいる中で、「ん?」と思う所があった。とある女の子と話している場面で、2個所ほど。何かいつもの彼とは違ったのである。

一言で言えば、「とても素直」になるのだろうか。喋り方が演技がかっていなくて、反応がとても「素」な感じだった。彼女の言動に対して本当に素直に返したらそうなったのだろうな、という感じである。

普段の彼は彼女に対しても他の人と同じようにやっぱり演技がかった接し方をしている。だけどその時は。おそらく驚きすぎたのと、楽しすぎたので、ぽーんと素の彼が出てきたのではなかろうか。


人間誰でも、演じている部分はあると思うのである。

「こんなキャラクターを演じてやるぜ!」と考えて意気込んで役作りしてやっている人はさすがに少ないだろうけど。

「こうなりたいな」という理想の姿はあるだろうし。家族の中の自分、友達の中の自分、職場の自分。「自分」というベースはあるけれども、やっぱり場面、場面で出てくる自分は少しずつ違うと思う。

「この場面はこうすればスムーズだからこういう自分でいこう」と考えてすることもあるだろうけど、大抵はそんなに意識せず。目の前の人、目の前の流れ。それを見ていたら自然と勝手に「ちょっと演じている部分もある自分」が出てくるのだと思う。


ただ、周りの影響を受けやすい人だと。「演じている自分」がその場面であまりに自然に出てきてしまって、自然すぎて気付けなくてそれが「自分」だと思ってしまうことがある。

おそらく彼はそうなんじゃないかなぁと思う。

それが「悪いこと」なのかと言えば、一概にそうだとは言えないと思うけれど。彼の「素」っぽいものに触れた時に、いろいろ考えてしまったのだった。

自分がそう動くことで周りがスムーズになる場面が、きっと彼の過去には沢山あったのだろう。それこそ、そう動く自分が「普通」だと思ってしまうくらいには。


別に物語の中で「それが彼の素なんだ」なんて描写や答え合わせがあるわけではなくて、何となく読んでいる中で私が「ん?」と思っただけ。

ただ、人の素とか、場面によって出てくる自分って何だろうなぁと読んでいて考えたくなったのだった。

もっといろいろ考えたかったし書きたかったけど時間なのでこの辺で!

何かまとまってなくてすみません。またどこかで続きを書くこともあるのかも。



ではまた明日。