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土曜日は徹夜の日

小学高学年くらいから毎週土曜日は祖父の家に泊まりにいくことが多かった。
祖父の家の応接間で本を読んでいると、しばらくすると妹も本を持って来る。
夜になると、武おじさんの家族もほぼ毎週泊まりに来る。
応接間では武おじさんの元気な子供達が走り回る。
それも日付が変わる頃になれば静かになる。
応接間には武おじさんと私と妹だけになる。

「これ読んでみて。」
ある科学雑誌の記事をおじさんは私に見せた。1995年9月号とある。最近の雑誌だ。
量子テレポーテーションについての記事だった。
わからない部分は置いておいて、分かるところだけ読んだ。
「ねぇ、どう思う?」
武おじさんは、これ面白いでしょ、という顔をしている。
中学生の良子は、そんなに頭の回転が速くないので、イメージを空想するにも多少時間がかかる。
「ちょっと、もうちょっと考えてからでいいですか。」

私は少し困りながら考え始めた。

「いいよ。いつでも。」

何でもないような顔をしながら、おじさんは今週も何か面白いことを期待しているようだ。私は何も持ってないのに。


武おじさんは鞄から古い本を取り出して読み始めた。白文で書かれている。
「何ですかそれ。」

良子はおじさんの手にあるやけに古い本を見て言った。
「これは、日蓮宗の古い経典のコピーのようなものだよ。僕は今、論文書いてるんだ。〇〇大学の〇〇先生に僕の話を聞いてもらいたくて。今の宗教について思うところがあって。世界がより良くなるんじゃないかと思うことは、意味がないかもしれなくてもやってみようと思ってるんだ。日蓮聖人が後世に伝えたかった事を、原書に近いものを読みながら僕は感じ取ってるんだ。これを出来るだけ多くの人に知ってもらいたくて。」


武おじさんはいつも情熱に溢れている。普段は普通の税理士さんだが、家業のその仕事はそこそこに、いつも趣味に没頭している。
趣味とは、宗教や哲学、数学や物理の本を読んで、読みながらたまに思索に耽る。それをずっとしている。


「ねえ、どう思う?」
私は妹に聞いてみた。
「え、ちょっと分かんない。」
妹は、いつもの好きな本を読んで夢心地な顔をしている。量子テレポーテーションについては全く興味がないので受け付けないし、面白いところだから邪魔しないで欲しいと言わんばかりの顔をした。きっと妹の目には今、お花の妖精か何かが見えているのだろう。

先週の今頃のおじさんはとても怒っていた。家の前に停めてあった車のワイパーを折られてしまっていたとの事。
誰にやられたかの心当たりはあって、その数日前に知人と宗教のことで議論になってしまったらしい。
私はそこまで他の人との議論にエネルギーを注ごうと思ったことがなかったので、おじさんは不思議な人だと思いながら聞いていた。
宗教と破壊の矛盾、そこから宗教と戦争、資本主義、宗教と幸福について話していた。
そのおかげさまか、今週の私は、何も悩まなくなった。自分というのは何とちっぽけな存在か、学校で嫌味を言われても、浮いていても、とても小さなことじゃないか、と思うようになった。


さて、今週は量子テレポーテーション。普通に生きていたら、一生考えもしないかもしれない事だ。これもご縁だから、考えてみようか。

量子テレポーテーションとは、粒子が瞬間移動するわけではない。量子もつれという関係にある2つの粒子のうち1方の状態を観測するの、もう一方の状態が、遠く離れていたとしても確定的に判明するのだそうだ。
量子もつれとは、2つの粒子が強い相互関係の状態にあり、互いの同期の速度が高速を越えるそうだ。
再現に必要な粒子が再現される場所にあれば、量子テレポーテーションは可能なのかな。
とにかく、いつかは人間も瞬間移動ができる日が来るかもしれない、と書いてあった。

「ねえ、武おじさん、生き物も本当に量子テレポーテーションできるようになるのかな。面白そうだね。でももし出来るなら、記憶とか意識とか性格とか、そういう事も物質で表せるってこと?もしくは、生き物が量子テレポーテーションすると、肉体だけ在って、記憶は初期化されたり、書き替えられたりするのかな。」

「今はまだ粒子のレベルで出来るかも、といいうところだから、生き物、ましてや人間なんて遠い話だよね。でも、出来る日が来るんじゃないかと思っていた方が面白いでしょう。」


「そうですね。」
そう言いつつ、頭の中は心配になった。
神隠しのようなことが至るところで起こらないか
ライオンみたいな怖い動物が突如現れたりしないか
テレポートする前と後の人は同一と言えるのか

先週おじさんから借りた読みかけの力学の本を閉じた。
「まだまだ先になるけど、ニュートン力学が成り立たない世界もあるよ。でもずっと先の話。」
先週おじさんはそう言っていた。
こんなに早く出くわすことになってしまうとは。


「おじさん、分からない。混乱しそう。先週叔父さんが貸してくれた本も、読むのに時間がかかるんだ。1週間でまだこれだけ。」

本の8分の一くらいをつまんで、見せながら言った。

「いいんだよ。そんなもんだよ。1行理解するのに何日もかかったりすることもあるんだから、気にしないで分からないことを頭に残して飼っておけばいい。面白いな、綺麗になってるな、って事を感じて楽しめばいい。」

「飼っておく。なるほど。でもまだ私は知らない事、分からないことを怖く感じたりすることが多いと思う。だから、量子テレポーテーションのことを、どこでもドアのようだ!と正直すぐに面白がれないみたい。ごめんねおじさん。期待外れで。」

「そんなことないよ。変な質問して面白がっちゃってるのはこっちだから。でもさ、量子テレポーテーションは分からないけど、人間はこれからいくつもいくつもパンドラの箱を開けてくんだろうね。進歩が、良いとか悪いとかの議論よりも先に行っちゃうかもしれない。そういう怖さはこれからあるかもね。」

「これはずっと先のことでしょう。何百年とか。」

「分からないよ。意外とすぐかもしれない。もう本当は成功してる人いるかもしれない。もうひっそり使ってる人がいるかもしれない。」
おじさんはとぼけた顔をしながら笑った。そして古い本をまた読み始めた。

武おじさんは、多くの他の大人とは違う。

「おじさんはどうして、いつもそんなに情熱があるの。」
「面白いじゃん、その方が。それに何年かに一回とか昔の友達と会うけど、その時に面白いネタが幾つかないとつまんないでしょう。」
「それってどこで出会った友達ですか。」
「大学の時の下宿の近くの銭湯。面白そうな本読んでたから話しかけたんだ。歳も学部も違うけど、いつの間にかよく3人で飲みながら議論するようになってた。偶然だよ。」
「それ、何か素敵だね。」
「僕、興味持つとかなり話しかけるからね。そういう意味では偶然じゃないかもだけど、自分の興味あることに興味持ってそうな人に出会ったら、何か話しかけるべきだよ。そんな人、実は多くないから。」
「う、うん。」
まだできる気がしなかったが、とにかく頷いた。

2ヶ月くらい前、おじさんは特異点解消論を読んでいた。おかげさまで、おじさんがいなかったら、私は一生知らないであろうという言葉に毎週会える。
法学部出身のおじさんが、学校の数学の先生でも知らなそうな本や論文を熱心に読んでいる姿を見るたびに、子供の私でも、おじさんの才能を誰かに知って欲しいと思っていた。

「武おじさん、本とか参考書とか解説書とか、自分で書いたり有名になってみたいとか思いますか。」

「思わないよ。若い時は数学やってみたいと思ってたけど、親が法学部じゃ無いと学費出さないっていうから仕方なくね。もっと抵抗しとけばよかった。」

おじさんは即答した。何かを自分にも言い聞かせるように一つ頷いてから続けた。

「でもまあ、今ごろ後悔しても仕方ないけど、一生数学を楽しんでいくということは決めてるし、今は数学以外にも知りたい分野が沢山あるから。無名でいることは、ある意味自由なんだよ。今日はこの本読みたい、今日はこれを考えたい、と思ったらそう出来るでしょう。仕事となれば、そうもいかないよね。側から見たら無意味なことなんだろうけど、僕はこれでとても楽しめてるよ。」

その時ドアが開いた。コーヒーの香りとともに、仁美おばさんがお盆を抱えて入ってきた。
「本当よ、楽しそうよ。よく分からない本で家中一杯になってるけどね。どうするのあんた、地下の納戸まで、とうとう天井まで本が積み上がってるよ。古本屋できるレベルになってきたよ。」
コーヒーをみんなに配り終えると、おばさんは両手でクマのカップを持った。

「お母ちゃん、すんません。僕幸せなんで、許してください。」
おじさんが、おばさんに手を合わせながらニコニコしている。
私も妹もコーヒーを吹き出しそうになった。
「しょうがないねー本当に。」
おばさんのしたり顔が眩しい。

おばさんの抱えているコーヒーカップの横に見える文字が気になった。おばさんの着ているTシャツに
♯傷物につき値下げしました!
とプリントされている。
「何そのTシャツ。面白いですね。」

「あ、これね、この前結婚記念日に買ったの。20200円も使っちゃった。」
「え、それそんなに高いの?」

買ったばかりにしては、このTシャツは、少し黄色が色褪せている。
「いやいや、このTシャツはリサイクルショップで300円のところ200円に値下げになってたから買ったんだよ。これ面白いでしょ。かなり気に入ったの。」

仁美おばさんはTシャツを両手で伸ばして、絵を見せた。羽織っているカーディガンでよく見えなかったが、#傷物につき値下げしました!は四角で囲まれていて、首から線が引かれている。タグを取らないで着ちゃっている、というオチ、いやいや、ネタのあるものだった。


「面白いね。さすが仁美さん。でも残りの2万円は?」
「毎年、美味いものを食べたということにして、ユニセフに寄付してるから。まあ、今年はこの前見つけた怪我した野良猫の治療費に1万5千円使ったから、五千円だけ寄付したね。」

「うん。毎日お母ちゃんの美味しいご飯が食べられるだけで僕は十分幸せです!」
おじさんが凄い勢いで胡麻を擦っていた。
私はコーヒーを少し吹き出してしまった。
仁美さんはあまり喋らないけど、一言が面白くて温かい。
何も挑んではないけど、この2人には一生勝てそうに無い気がした。

私もおじさんのような探究心を持ち続けてみたいな。そしておばさんのように大らかでユーモアのある人になってみたいな。

「お父ちゃん、お母ちゃん、僕起きちゃったよ。もう眠くない。」
隣の部屋で寝ていた3歳のおじさんの子の奏が目を擦りながら起きてきた。
「ありゃ、起きちゃった。」
おばさんが天を仰いだ。

奏は最初おばさんの膝に座ろうとしたが、布団に戻されるかもしれないと思ったのか、急に向きを変えて良子の膝の上に座った。
「良子ちゃん、奏ちゃんね、月が明るい理由分かったの。リモコンでつけてるの。僕ね、大きくなったら、月のリモコンのボタン押す人になるの。みんななりたいと思うから、なれるか心配だけどね。」

やけに真面目な顔をして話すので、私も頑張って真面目な顔をして聞いた。するとおじさんが奏ちゃんの頭を撫でながら言った。
「お父ちゃんが月がなぜ明るいのか質問したんだよね。そしたら彼なりに今はこう言う結論になった。かわいいだろ。」
かわいいだろう、がくすぐったくなった。おじさんから見たら私も奏ちゃんもひよっこだ。
「うん。かわいい。リモコン忘れないで毎日押せるかな。」
急に奏ちゃんを揶揄う、いや、可愛がってみたくなった。

「大丈夫。忘れないよ。ご飯食べる前には絶対おせるから。」
「ははは。」

奏ちゃんは真面目だった。


「おじさん、毎週持ってくるお題が難しいことばかりで、毎週ただただ揶揄われてるような気がしてたけど、最近色々気づいたことがあって。武おじさんの質問が私の生活とはかけ離れすぎているおかげで、日常の悩みがどうでも良くなってきたよ。修行のように思えてきた。何が起こっても動じない人になれそうな、そんな気がしてきたの。ありがとうございます。」

私はちょこんと頭を下げた。

「毎週からかってるのに、お礼言われちゃったぜ。」
得意げにガッツポーズしながらおばさんを見た。
「良ちゃん、毎週この人の悪趣味に付き合わされて気の毒だと思ってきたけど、良ちゃんもなかなかの悪趣味なんだね。くれぐれも気をつけなさい。なんてね。」
おばさんがお茶目に笑った。
「とんでもないです。これから2人を見習ってもっと悪くなりたいな。なんてね。」
「ははは。」

いつの間にかうたた寝していた妹が、みんなの笑い声で目が覚めた。

妹の後ろにある窓が白んできた。もう時期夜明けだ。
「そろそろ帰るね。この本、もうちょっとお借りします。」
「うん当分いいよ。また来週。おやすみ。」
「おやすみなさい。」

毎週、日曜日の朝に言う、不思議な「おやすみ」

肌寒くなってきた早朝。金木犀のおかげでいっそう今朝は清々しい。

「お姉ちゃん、待って!」

走ってくる妹が見える。寒いけど、金木犀の香るここで立ち止まって待っていることにした。

そして、今週も何があるか分からないけど、何とかなると思えるようになってきたような気がした。

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