空 第13話

〈 秘密 〉

吹き荒れる雨風の音で秀夫は眠れないでいた。納戸に閉じ込められてからもう半年過ぎようとしていた。
こちらの方へ向かってくる足音が、納戸の前で止まった。
そして切れ切れの涙声が聞こえて来た。
「秀夫。ごめんね。母さん何もできなかった。」
母さんの声は細く、そして息なのか声なのか分からないほどだった。
「この嵐は今年最後の大嵐だとさ。この嵐が去ったら、お前を外に出すことになったよ。ライ病の専門の病院はここからとても遠いから、送って行くことは出来ないの。許してほしい。」
戸を挟んだ外にいる母は、手をついてしゃがみ込んでいるのだろう。戸の隙間から、母の咽び泣く左手が見えた。秀夫はしばらく黙って母の切れ切れになった嗚咽を聞いていた。
そして、絞り出すように母が言った。
「そして、もう戻らないでほしい。」
秀夫はすぐに淡々と続けた。
「はい。分かっています。」

秀夫は不思議と何も思わなかった。この半年で、涙も出尽くしていた。
用を足す以外でこの納戸を出ることはなかった。便所と納戸が近いため、母以外と会うこともなかった。
このような生活がいつまで続くのだろうか。この言葉が頭に浮かぶたびに、同級だった林田登を思い出した。

秀夫と登は二人とも家の田植えや稲刈りの時期は学校を長く休むことが多かったが、そのような境遇が2人の仲を親しくさせた。
ある日の放課後、2人で学校の近くの川に入って、タニシなどを採っていた。上着の袖やズボンの袖を捲り上げて川に入った。秀夫は川底にある岩らに付いたタニシを一つ一つ取ってポケットに入れていった。いつの間にか秀夫は登の背後にいた。膝まで捲り上げたズボンの裾が屈んで前のめりになっているためか、背面は下半分の太ももまで見えた。その時、赤い大きな丸い痣のようなものの端が見えた。
「登君、火傷かなんかしたの。」
僕は半分視線を川底に置きながら、何気なく聞いた。
「どうして?」
登はとても驚いたように言った。
「君の太ももに何か大きな痣みたいなものがあったから。」
一瞬登の顔が硬った。

「ああ、そう。そうなんだ。」
登は今度は急に上の空になって、何か考え事をしながら言った。僕が視線を上げて、登を見ながら不思議そうにしていると、登は急に真顔になって続けた。
「このことは誰にも言わないでほしい。」
「どうして。」
「家でそう言われた。絶対に誰にも言うなって。これは治らないらしい。」
登の真剣さに、握っていたいくつかのタニシを川に落としてしまったが、そんなことも忘れて泥のついた片手で咄嗟に髪の毛をかき回してから言った。
「死んでしまうのか。」
「分からない。ここにいても治らないって言われたんだ。だから、」
登は少し突き放したように早口になった。

「だから、何。治らないってどういう事。」
急に詰まって何も言わなくなった登に、言おうとしてやめた言葉を聞きたくて促したが、登は強制的に終わらせた。
「まあ、とにかく、誰にも言わないでくれ。」
登は頑なにしばらく何も言わなかった。
僕は痣のようなものくらいで何故あんなに怒るのかまだ分からなかった。
「でもさ、そういうのは、小さいのみんなにあると思うよ。僕の肩にもなかなか治らない小さい虫刺されがある。ほら。」
僕は登を何とか励ましたかった。
「いつできたの。」
登は驚いたように目を見開いて言った。
「分からない。いつの間にか。大分前からあるよ。」
僕はお気楽に答えた。
「それ、秘密にした方がいい。絶対誰にも言わない方がいい。」
登は川底を眺めながら言った。
「母さんにも?」
「うん。風呂や水浴びはなるべく一人がいい。」
登はずっと無表情で川底を見ていた。


「う、うん。でもどうして?」

登は何も言わずに俯いていた。

「まあ、分かったよ。秘密にしてみるよ。」
僕は、秘密にしなければならない理由を知りたかったが、言いたくなさそうな登を見て、これ以上聞くのはやめておくことにした。今度、機嫌が治ったらまた聞いてみることにしようと思った。


その日から程なくして、登は登校しなくなった。まだ農作業の忙しい時期ではなかったので、とても心配になった。
休んでいる登の事を先生は何も話さなかった。不気味なくらい誰も何も登のことを話さなかった。
そこで、登について先生に質問してみた。
「登は家庭の事情で、休むとのことだ。詳しい事情は分からない。」
先生はそんな事を言ったが、理由はすぐに分かることになった。


ある日の学校からの帰り道、登の兄と妹が石をぶつけられて虐められていた。いじめている側の子供の中に、秀夫のすぐ上の兄の秀勝がいた。秀夫は苦しかったが、何も言えず通り過ぎた。


その日の夕食時、秀勝が唐突に聞いた。
「秀夫、お前、林田登と友達か。」
食事中にあまり話をしないこの家では珍しい事なので、両親と祖母と兄弟姉妹の家族10人が一斉に秀夫を見た。
「どうして。」
僕は戸惑いながらみんなの顔を一度見回してから、秀勝に視線を向けた。
「あいつ、ライ病で病院連れて行かれたらしいぞ。」
秀勝は何故か得意げに言った。
「ライ病って何。どこの病院に。」
秀夫は、川で登と話した事を思い出して怖くなってきた。
「知らないのか?体に斑ができる病気だよ。遠くにある隔離病院へ連れて行かれたよ。もう出てこられないよ。」
秀勝はいかにも清々したという様に言った。
「どうして出てこられないの。」
「病気が移るし、治らないからだよ。」
秀勝がいかにも当たり前だというように言い放つと、父親も続けた。
「ライ病は、罰当たりな奴がなる病気だ。厄介なことに、移ったり、遺伝したりする恐ろしい病気なんだ。秀夫、お前はそいつと仲が良かったのか?」
「仲良くはありません。」
秀夫は嘘をついた。仲が良かったと言ったら、ここで寝巻きを脱がされるかもしれなかった。絶対に虫刺されを見つかりたくなかった。
「ならいいが、移っていたら大変たんだ。縁談も破談になるからな。」
父さんはそう言うと、一番上の姉さんを見た。姉さんの視線は僕に向いた。僕は居た堪れず一度視線を卓袱台に落としたが、秀勝が
「それに、いじめられるぞ。悪い事をしたからライ病になったんだ。当然の報いだ。」
と意気揚々と言うと、我慢ができなくなってきて秀勝を睨みつけた。
「兄さんは登や登の兄さんに何かされたの。」
「いや。全然しゃべったこともない。」
「ライ病は悪い事をした奴がなるって言ってたけど、ではどうして登が悪い事をしたと言えるの?悪い事をされていないのに、兄さんが登の兄妹までいじめるのはどうして。」
秀夫は、この日の帰り道で虐められていた登の兄妹を思い出しながら言った。
「あんな病気移ったら大変だ。家から出て来るなと言ってるだけだ。兄弟だって同じだよ。遺伝するんだぞ。親も兄弟も親戚も、もう病気になっているんじゃないか。あいつらもう誰からも煙たがられている。あんな無様、俺は絶対に嫌だ。」
秀勝の勢いは止まらなかった。そして父はいかにもと言うように続けた。
「林田の家の奴らには絶対に近づくな。分かったか。」
「はい。わかりました。」
秀勝が大声で言った。みんなも頷いた。
僕は躊躇っていたが、みんなの視線が僕に集まって静まり返った。そこで仕方なく言った。
「分かりました。」
秀夫は益々肩の虫刺されを家族に打ち明けることが出来なくなった。


赤い点は少しずつ大きくなり、やがて虫刺されなどとは言えない大きさになった。
そして、他にも虫刺されが少しずつでき始めた。腹や背中、太腿にも出来始めた。恐怖はどんどん増すばかりだった。
それから数ヶ月後、とうとう見つかってしまう日が来た。


食事中に母さんが僕の腕を凝視して硬直していた。丈が小さくなってきた寝巻きでは、隠しきれなくなっていた。
その食事の後、母さんは僕を納戸に連れて行った。母さんは、父さんと良い方法を考えると言っていた。
父も秀勝もみんな、僕を憎らしく思っているだろう。


それからはしばらく泣かない日はなかった。
昼に泣きながら思うことは、父は私を登と同じように病院へ送るのだろうか、それとも、世間から虐められるのをを恐れて僕を山に埋められるのだろうかということだった。
母親に病気を知られて、一瞬安堵した気になったが、それは全くの見当違いだった。私はライ病で死ぬのだろうか。すぐには死なないとしたらこれからどんなことが起こるのか、考えれば考えるほど絶望的になった。


毎日毎日変な夢も見た。高い木の枝にぶら下げられている。下には底なしの穴が掘られていて、父は大きな鋏を持って母と話している。母は紐を切らないでとお願いしているが、父は早く切ってしまいたいようだ。兄弟たちも僕を見ている。2番目の姉さんは気の毒そうにしている。一番上の姉さんと3番目の兄の秀勝は苦々しい顔をしている。僕は底なしの穴の上に身動きが取れないまま吊るされ続けた。
外へ出られない生活は続いた。
外の様子はよくわからないが、蝉の声は虫の声に変わり、暑さも落ち着き、納戸の天井近くの換気戸を開けると、涼しい風を感じるようになった。
この生活はいつまで続くのか。ライ病に罹ったことよりも、終わりが見えないことが耐えられなくなってきた。でもやり場のない怒りをぶつけられるものも何も無かった。
秀夫はいつしか何も思わないように、何も感じないようになってきていた。病気で死ぬこともどうでも良くなりつつあった。ただ無感情な中にも願望があるとすれば、外に出てみたい、それだけになっていた。


そしてとうとう、隠される生活が終わる時が来た。この嵐が過ぎたら、家から出られる。何の感動もないが不思議と悲しくもない、無味乾燥な開放感がそこにあった。

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