空 第15話
〈 吉野の思い 〉
「秀夫兄さん、いつまで寝てるの。」
妹の松子がねこじゃらしで秀夫の顔をくすぐった。
「松子、やめろよ。痒いじゃないか。」
松子は止めない。松子は8人兄弟の末っ子で、秀夫とは歳が一番近い。そのためか、松子は秀夫より年下にもかかわらず、妙にいつも侮ってくる。
「ふふふ。」
大笑いするのを必死で抑えるように堪えながら、松子はくすぐり続けた。いつも少し悔しくなるが、それも秀夫には懐かしかった。
そのうちに松子の持っている猫じゃらしがみるみる大きくなり、束子のようになった。
「痛い、痛い。止めてくれ。」
秀夫は手で顔を覆った。痛痒さは消えない。
「ははは。顔が怖い。秀勝兄さん呼んでこよう。」
ニヤついた松子が離れていく。
「行かないで。」
秀夫は秀勝には顔を見られたくなかった。
「呼ばないで。」
秀夫は顔を掻きむしりながら、怖くなって目を開けた。
夢だった。
風が吹くたびに、小屋の隙間から入る風が数本の藁を揺らし、秀雄の顔をくすぐっていた。
すぐ隣に寝ていたはずの吉野はもう居なかった。
小屋の外へ出ると、辺りの草に露が降りていた。暗くはないが青空はほとんど無い空をしばらく見上げていると、体が寒さを思い出したように、秀夫は急に小さく身震いをして我に帰った。あたりを見回しても吉野の姿は無い。
小屋の裏側に、生い茂る草の隙間から、踏みつけられた草がかすかに見えた。草をかき分けると少し先にももう一つ。その微かな気配を辿って行くと、木立のそばの半分枯れかかった草の茂みの向こうに吉野の頭が、そして背中が見えてきた。
足音で気付いたのか、吉野が振り返った。
「おはよう。」
髭が長くてわかりづらいが、吉野の顔が少し笑っているように見えた。小さな刀のようなものを握っていた。
「おはようございます。何をしているのですか?」
「これだ。」
吉野は膝の前にある小さな台の上の、手のひら位の大きさの木の板を少し持ち上げて見せた。美しい顔のお釈迦様が彫られていた。
「凄い。吉野さんは職人なんですね。」
「いや、違う。年老いた独り身の仏壇職人の雑用をしていたんだ。そこで見ていた。その人は、元々孤児だった俺のことを見下していたから、彫り道具を触らせてくれたことなんて無かった。だから見様見真似だ。」
吉野はまた背中を向けて、木を掘り始めた。
吉野の手元をの蓮の花びらの細い脈や筋が、どんどんと木の板の中に鮮明に浮かび上がってきた。
「やはり、とても上手です。」
「まあ、最初よりはマシになってきたかもしれない。」
吉野は一瞬止まって自分の手元をよくよく眺めながら言った。
秀夫は、このような、木の厚板に彫られた絵を見たことがなかった。
「これをどうやって売るんですか。いくら位で売れる物なのですか。」
「売らないよ。これを、落ちぶれたら坊さんのような格好をして、戦死者が出た農家へ持っていく。供養になると言って、少しの米と交換してもらう。今や金は紙切れ同然だ。物と物で交換するのが確実なんだ。」
確かにそうかもしれない。家にも、見知らぬ都会の人が、見事な反物や掛軸、飾り棚や壺などを山ほど荷車に積んで、米や野菜と交換して欲しいと何人も訪ねてきていた。日ごとに貨幣価値が大きく下落していったためだ。昨日一円で買えたものが、今日は五円出しても買えない、そんな物不足な状況だった。それは、去年の終戦後から今年に入ってもしばらく続いていた。
「確かにそうかもしれません。では、その彫り道具は何と交換したのですか?」
「これは交換じゃない。焼け跡から盗った。」
「盗った?」
「ああ。空襲の日、俺は出来上がった仏壇を納めに遠出していたんだ。帰りが遅くなって、すっかり日が落ちてしまったから、疲れて橋の下で眠る事にしたんだ。幸運にも、それで免れた。」
「次の日に戻ってみると、全て跡形もなく無くなっていたんだ。もうあの人は死んだんだなと思った。足が悪かったから。仕事場の辺りを弄ってみたら、その証拠にこれが出てきた。もし逃げたなら、これを持っていくだろうから。」
「じゃあ、形見ですね。」
「形見?違うよ。そんなんじゃないよ。あの人にはどれだけの辛酸を舐めさせられてきたか。」
「でも、他には行かなかったわけですよね?」
「行けるところが中々無かったからね。いくら邪険にされても耐えるしかなかった。仕方なかった。」
吉野は何かを思い出しているような、少し悲しげな、遠い目をして言った。そしてまた黙々と彫り始めた。
また少し風が吹き始めた。小屋のカタカタと揺れる音が微かに聞こえてきた。
昨晩の小屋の中で見ていた吉野の寝顔を思い出した。
「吉野さん、どうしてに私を遠ざけないのですか。私と同じ器の物を食べるなんて、そんな事、実の母親でさえ出来ないと思います。それなのに、どうしてですか。」
「そうだな、何となく、ライ病はそう移るようなもんじゃないって思ってるからだろうか。もし移るなら、俺だってとっくの昔に罹ってるはずなんだ。」
「そうなんすか?」
吉野は背中を向けて手を動かしながら話し始めた。
「物心ついた時には、いつも8人とか10人とかで一つの部屋で暮らしてた。と言っても家族ではなくて、独り身の女とその子供だけ。おれの母親をふくめて女が4人くらいで、その子供が5、6人の生活。大人が働きにいってる時は、子供だけで居て、飯は4人の女のうちの誰かが作ったのをみんなで食べた。」
吉野は木彫りの板に強く息を数回吹きかけ、板に付いた木屑を吹き飛ばしてから続けた。
「ある時、同居の一人の女がライ病に罹った。すぐに2人の女とその子供が居なくなった。でも、俺と俺の母親はそこに残った。」
「どうしてですか。」
「俺の母親はそこに入る前、一度河へ入って死のうとしたことがある。俺も一緒に河へ引き摺り込まれた。でも結局死ねなかった。死のうとすることも簡単なことじゃない。だから、もしライ病に罹って死ねるなら、それでいいじゃないかと母親は言っていた。俺が5~6歳の頃のことだ。」
「吉野さんの母親は、どうして死にたかったのですか。」
「俺の父親の病死の直後に、母親の実家が火事で焼けて両親が死んで、絶望していたのだと思う。」
「吉野さんがいるのに?」
「俺がいるのも絶望だったと思う。俺を捨てられたらどんなに楽かと言われたことがある。」
秀夫は、自分の母親も実はそのように思っていたかもしれないと思うと、寒々とした気持ちになった。
「しばらくは、ライ病の女とその子供と、俺と母親との4人だけの生活になった。ライ病の女の子供は正と言って、俺はそいつといつも一緒にいて、大抵同じ物を食べた。正の母親が病気を隠しきれなくなって仕事も出来なくなって家にいるようになってからしばらくすると、突然居なくなった。俺の母親は、正の母親は隔離の病院へ入ったようだと言った。手紙があったらしい。もうおそらく戻れないと。」
「吉野さんはまだ罹っていないのですか?」
「ああ。罹ってない。正も罹ってなかった。俺の母親も。」
「そうなんですか。」
「おそらく、ライ病はそう簡単に罹るもんじゃないんだよ。」
吉野は木彫りの板の上の細かい切屑を払ってから続けた。
「それに。」
「それに?」
「お前は少し正に似ている気がする。こんな状況でも淡々としているところが。」
吉野は振り返り、秀夫を見て言った。秀夫は血が沸き立つほど嬉しくて興奮したが、感情を表に出さなくなって久しいため、体が感情に従ってくれなくなっていた。
「私にはよくわかりませんが、ただ、今とても嬉しいです。」
「そう。ならもう少し喜んでみろ。子供なんだから。」
「はい。吉野さんがいてくれて良かった。ライ病を移してしまうんじゃないか、人殺しになってしまうかもしれないと思うと、当然誰とも話せないし話してはいけないと思っていました。いじめられても仕方がないと思うしかないのかと。でも、そうでもないのかもしれない。そう思ってもいいって事ですよね?」
「まあ、多くの人が言うから正しいと言うわけでもないからね。」
「ありがとうございます。生きていても良いような気がしてきました。吉野さんのように、ライ病はそんなに移る病気でもないって知っている人は、他にもいるでしょうか。」
「分からない。でも、正だって知ってるはずだろうし、いないわけじゃないだろう。」
「そうですか。」
「僕も病院へ入れてもらえるでしょうか。急に人のいるところへ行ってみたくなりました。」
「入れると思う。」
「名前を変えて入院出来ますか?」
「おそらく。浮浪者の患者も沢山入院したらしい。」
「そうですか。ありがとうございます。」
秀夫は、すでに隔離病院へ送られてしまっていた友達の登にも、吉野の話をしたくなった。登るのいる隔離病院へ行向かいたいと思った。
ここで死ぬのはやめることにした。