空 第19話
〈 夕焼けのベランダ 〉
この日、良子は朝からご機嫌だった。明日退院できる、もうすぐ外へ出られる、そう思うだけでウキウキが止まらなかった。
夕ご飯を食べ終えると、大きな鞄に荷物を詰め始めた。
10日分の入院の荷物などそう多くない。あっという間に詰め終えてしまった。詰め終えてから、お絵かき帳や本を鞄の底の方へ仕舞い込んでしまった事を後悔した。今日これから何したら良いのか、本をまた取り出すのも面倒だ。そんな事を考えていると、病室のドアをノックする音が聞こえた。
ドアを開けると、サトシくんがナースステーションの入り口に立ち、手招きしているのが見えた。私は慌ててサンダルを履いてナースステーションへ行くと、サトシくんは婦長さんが話をしていた。
「え、どこに行くの?」
婦長さんが少し怪訝そうに言った。
「最上階の西側のベランダです。」
サトシくんが言った。
「佐々木さん連れてくの?」
「はい。僕、小児病棟の模範患者だから、大丈夫でしょう。お願いします。」
「私も行くの?どうして行くの?」
私はサトシ君に聞いた。
「散歩。」
「行きたーい!」
私は両腕を振り上げてから、婦長さんにお願いの合掌をした。そんな私を心配そうに見ながら言った。
「あのね、サトシくんはまだしもね、佐々木さんは模範患者とは言えないからねえ。」
「モハンカンジャって何?」
聞いたこのない言葉に困って、咄嗟にサトシ君を見た。
「ここは行ってはいけないよ、とか、ルールをしっかり守っている患者のこと。」
これはまずい、と思った。この入院中にまだモハンカンジャになったことが無かった。この1週間と少々の間に、看護婦さんに何度病室へ戻されたことか、それを思うとしょんぼりしてきた。
そんな私の若干の諦めをよそに、サトシくんは続けた。
「大丈夫です。ちゃんと僕見てますから。10分で帰ってきます。」
そして、婦長さんのサンダルを見つめていた私の頭を少しこづいてから言った。
「良ちゃん、ちゃんと出来る?」
顔を上げると、婦長さんが先程よりも少し真剣な顔で見下ろしていた。そこで、私も真面目に答えた。
「出来ます。模範患者できます。」
婦長さんは何か少し考えたていた。
「そう?」
婦長さんはサトシ君をじっと見た。その後、私に視線を移した。サトシ君の真似をして、私も婦長さんをしっかり見つめ返した。
「なら、今回特別ね。20分以内に帰ってきてね。」
「はい、ありがとうございます。」
「ありがとうございます。」
模範患者に従って、私も婦長さんにお辞儀をした。
小児病棟を出て、エレベーターで最上階へ昇った。そこには大きな食堂があり、沢山の人が出入りしていた。
サトシ君は無言のまま少し早足でどんどん進んで行った。私はすれ違う人を避けながら追いかけた。
食堂の隣の細い通路を進み、突き当たりのドアを開けると、明るい夕焼けの空が広がっていた。
「うわーすごい。良い夕焼けの空だね。よく来るの?」
私は久しぶりの大きな空に嬉しくなりながら言った。
「いや、何年も前に、無断で一人で来た時は、すごく怒られた。」
サトシ君は何でもないように淡々と話した。
「すごく怒られるの?」
夕日を見るだけなのに怒られるなんて想像できなかった。
「うん。多分心配なんだよね。飛び降りないかとかね。」
またサトシ君は夕日の方を見ながら淡々と言った。
「えっ、でもしないでしょう?飛び降りないでしょう?」
私はサトシ君の顔を覗き込んだ。
「う、うん。まあ。」
一瞬こちらを見たが、視線を上の少し暗くなりつつある青空に向けながら、サトシ君は続けた。
「屋根の上って、こんな感じ?」
「こんなに高い屋根には登らないよ。怖いよ。」
「それもそうだね。でもさ、空は屋根の上と同じ?」
両脇を柵に置いて階下の建物の方を見ながら言った。
「うん。多分。」
私もサトシ君のようにしてみたかったが、柵が高いので諦めた。柵の一番高い横棒に額が当たり、その意外なほどの温かさが伝わってきた。
サトシ君は、一緒にオセロをした日から、屋根から見える空を見てみようとしてくれてたのか。私もサトシ君の世界、学校も家もとても遠い存在で死がすぐ近くにある世界を分かろうとしてきたけど、サトシ君も私の見ている景色を知ろうとしてくれていた事が伝わってきた。
「私、学校嫌いだけど、これからは嫌いだと毎日は言わないようにしようと思うよ。」
学校好きになるよ、とは言えなかった。
「そう。」
サトシ君は少し不思議そうに頷いた。
何を話ししたら良いか分からず、ベランダの柵から身を少し乗り出して階下を見下ろすと、病院食を作る調理場近くからトラックが一台動き出し、病院の敷地を出て行った。そしてまっすぐな丘を登っていくと、住宅地の中に入り、見えなくなった。住宅地のそこら中の瓦が夕日に照らされて輝き出していた。
「病院に来た時は、遊びに行くね。」
やっと、この場にふさわしそうな言葉を思いついた。すると、夕日に照らされた家々を見ながら、サトシ君はすかさず言った。
「僕いないかもよ。」
「え、退院決まったの?良かったね!」
私は一歩駆け寄って言った。
「違うよ。小児病棟じゃなくて、一般病棟に行くかもだから。」
「あ、ごめん。」
「気にすんな。」
私の何気ない勘違いな一言で、サトシ君は苦笑いになり、私が謝る。そして、気にすんな、と何でもない顔をしてくれる。このような場面をを、この入院中何度繰り返したことか。その度に、何も知らない自分に気付いた。そして、細くて白くてか弱そうな見た目とは違い、サトシ君が心の強い人だということが分かってきた。
「それに、分かんないじゃん。」
サトシ君は少し薄ら笑いをしながら下を向いた。
「何が?」
私は良く分からなかったので、咄嗟に聞き返した。
「・・・」
サトシ君は黙り込んで、柵に両腕を乗せて下の方を眺めた。
私は、この前の朝、急に空っぽになっていたあの病室を思い出した。そして何とかして励ましたくなった。
「大丈夫。きっと大丈夫。サトシくんは大丈夫。」
「・・・」
サトシ君は黙り込んんだ。
どんな言葉をかけても、私には励ます事が出来ないのかもしれない。 何も知らない人に、大丈夫って言われても何も力にもならないのかもしれない。そう思いながら私も柵の外の階下の方を眺めた。
「そうかな。大丈夫かな。」
下の方を向いたまま、サトシ君が言った。
私は顔を覗き込もうとしたが、やはりやめて、下の方を見て言った。
「そうだよ。」
夕日が段々と赤みを増して、眩しかった光も段々と暗くなり、半分暗くなった青空から夕日の方へ帰っていくカラスが何羽か見えた。そのカラスが見えなくなると、サトシ君は一度頷いてから言った。
「うん。」
その時、背後にあるドアが急に開いて、お婆さんが顔を出して言った。
「あなたたち、病棟抜け出してきたの?」
そう言うと、抱えた籠の中にある何枚かの雑巾のような布を、近くにある物干しに干し始めた。お掃除のお婆さんだった。
「大丈夫です。婦長さんに許可もらってます。」
「モハンカンジャなんです。」
私はモハンカンジャという言葉をまた使えたのが嬉しくて、得意げになった。
「あらそう?それはそれは。でも、もう鍵を閉める時間だから、室内に入ってちょうだい。」
お掃除のお婆さんに背中を軽く押されながら室内に入ると、おばちゃんはポケットから小さなべっこう飴を取り出し、包み紙を剥いて、私たちの口に放り込んだ。
「飴がなくなる前にお部屋に帰ってね。モハンカンジャさんたち。」
「はい。」
私たちはエレベーターホールに歩きながら一度振り返ると、まだお婆さんはこちらをまだ見ていた。お婆さんに軽く手を振ると、カレーや蕎麦の匂いがした。
食堂を通りすぎたところで、エレベーターのドアが開いた。サトシくんは白い細い指でエレベーターのボタンを押した。
「みんな心配してるね。病棟に帰ろう。」
サトシ君は淡々と話した。
「うん。」
次の日無事退院した。ナナミちゃんの退院の時のように、サトシ君は病棟の入り口まで来て見送ってくれはしなかった。病室にもいなかった。
このお散歩がサトシ君と居られた最後の時間になった。