空 第10話

〈 病院のお友達 〉

良子は昼過ぎに目が覚めた。その瞬間から食べ物の事が頭を離れなくなった。こんなにお腹が空いて仕方がないのは久しぶりのことだった。
病室のテーブルの上にリンゴが2つ並んでいるのが見えた。皮を剥くナイフを探したが引き出しの中には箸とスプーンしか入っていなかったので、着ているパジャマの裾で軽く拭いて、そのままりんごに齧り付いた。口を大きく開けたのも久しぶりな気がした。リンゴを齧ろうとしてもうまく齧れず、僅かしか口に出来なかった。それでも、りんごってこんなに美味しかったのね、と感動するには十分だった。
次にこのリンゴのどの辺りを齧ろうかと回しながら見ていると、お母さんが病室へ入ってきた。
「おはよう。食欲出てきたのね。」
「うん。ナイフが無かったから、皮剥かないでそのまま食べちゃった。」
「食べにくいでしょう。今すりおろしてあげるから、ちょっと待ってて。」
「ありがとう。」
りんごは生で食べても美味しいけど、芋はきっと美味しく無かっただろうな。
お母さんの手元の動きを眺める。指につままれているリンゴのかけらがどんどん小さくなっていく。

「お母さんは、秋に山の中で遊んでいる時、お腹が空いたら何を取って食べる?」
「そうね、柿かな。でも思い切り齧って渋柿だった時に、本当にがっかりするからねえ。アケビだったら最高かな。」
「確かにそうだね。」
山を歩いているときに、秀夫がアケビを見つけられていたら良かったのになと思った。
すりおろしたリンゴを食べ終わると、お母さんは帰って行った。明日は家から本を持ってきてくれるらしい。明日からは暇を潰せるけど、今日はこれからとても暇なようだ。もう当分眠れそうにないのに、時間を潰せるものが周りに何も無かった。
何もやることがないのに、ずっとベッドに居られるわけもない。
「トイレとテレビのある大きな部屋以外入らないようにね。」
看護師さんが言っていたのを思い出した。そこで、夕食が済んだら、今日はとりあえず、まだ行った事のないテレビのある部屋へ行ってみることにした。


病室のドアを開けるとすぐにナースステーションがあった。トイレへ行くふりをして、廊下の奥の方へ進んでいく。どの部屋もわりと静かだ。
3つ先のドアから小さな女の子の泣き声が聞こえた。
「ママ、帰っちゃだめ。やだ、帰らないで。」
「また明日来るから、もうすぐ退院だからもう少し頑張って。」
「もうやだ、ナナミもママと一緒に帰りたい。」
「大きな声出さないで。お家へ帰りたくても帰れない子がたくさんいるんだから。ね、もう少しだから、頑張って。」
「やだ。」
少し開いたドアから中を覗いてみた。面会終了時間が近いからか、少し急いで荷物を大きな袋に詰め込んでいるお母さん。女の子は諦めずにお母さんにへばり付いている。
ナナミちゃんというあの女のお子はもうすぐ退院なのか。羨ましい。私もこんな何もないつまらないところから早く抜け出したかった。
さらに進むと、広い明るい部屋の中に、おもちゃや本棚を見つけた。何人か遊んでいる。大きなテレビの前に並んだソファの上で、何人かアニメを見ている。
他の小さな男の子もお母さんと引き離されている。看護師さんも手伝って、やっとお母さんは帰った。
アニメが終わっても、ヨシオくんというその男の子はずっと泣いていた。
その大きな部屋の奥には机がいくつか並んでいて、ホワイトボードがあった。小学生の漢字のポスターと掛け算の表も壁に貼ってあった。
ヨシオくんはまだシクシク泣いている。
本当は話しかけてみたかったけど、まだ泣き止みそうにないので部屋へ戻ることにした。
自分の病室のドアに手をかけた時、隣の病室のドアが急に開いて、色白の背の高いお兄ちゃんがすっと出てきた。
「やあ、お隣さん。」
お兄ちゃんはマグカップを持っていない方の手でドアを閉めながら、顔だけこちらを向けて言った。
「どうも。」
私はちょこんと頭を下げながら言った。お兄ちゃんがにっこりしているのでこちらもにっこりした。
「良子ちゃんて言うんだね。割と早く元気になってよかったね。」
病室の入り口に貼ってある私の名前を見ながらお兄ちゃんが言った。
「元気になったと思うけど、まだ退院じゃないみたい。」
「病名は?」
「肺炎」
「じゃあ、もうすぐだよ。心配ない。大丈夫。」
「お兄ちゃんはいつなの?」
「サトシだよ。退院?そんなの知らないよ。」
「どうして?」
「え、知らない。」
急に無表情になって答えた。
「何で。」
サトシくんは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにどこか諦めたような表情になって言った。
「だから、分からない。」

「消灯の時間になるから、お部屋に入ってね。」
看護師さんの声がナースステーションから私たちの方へ飛んできた。
私は、サトシくんが持っているマグカップのクローバーを見ながら、
「じゃあ。」
と言って部屋へ入った。顔が見られなかった。

ベッドに入って、サトシくんが不機嫌になった事がやはり気になった。私は何か良くない事を言ってしまったようだった。

頭の片隅にサトシくんの少し怒った顔を思い浮かべつつ目を閉じた。そして、秀夫の旅の続きを今日も想像し始めた。

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