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小説 空気 2 突風

2 帰り道


急に木々がざわめいた。そよ風のようなざわめきに聞こえたが、一瞬にして、それが突風が吹いたような枝と枝が枝がぶつかり合い軋む音も加わった。

私は草の生えた場所で横になっているようだった。精一杯の力でやっと動かせた瞼を開いて見える細長い視界から、顔を覆うように揺れる草と夜になりそうな空が見えた。強い風に寒さで鳥肌になった体が、風で煽られて揺れる草でむず痒くなってきた。


「カアカアカアカア。」

急に近くでカラスが鳴いた。驚いて大きく見開いて広がった丸くなった視界の中には、自分の靴のつま先やランドセル、見覚えのある木々も見えた。私はどうやらお兄ちゃんとお茶飲んでいた場所にいるようだった。

靴を履いている自分を不思議に思いつつ、少し横を向いていた顔を空の方へ向けた。丸い視界の中は、かすかに夕焼けの残る暗くなりかけた空と、お兄ちゃんの顔だけになった。お兄ちゃんは、どこか不安げな、怒っているような、微笑んでいるような、それでいて泣き出しそうな顔で、こちらを見ていた。ずっと隣に座っていたようだった。

「リョウちゃん、大丈夫?」

いつもの優しいお兄ちゃんの声だった。

「うん。」

私は何があったのか聞いてみたかったが、言い出すことが出来なかった。冷ややかなお兄ちゃんの声を思い出し、目の前のお兄ちゃんが怖い人へ豹変してしまう事を想像すると、それ以上何も聞いてみることが出来なくなった。私は段々と恐怖が増す中、出来るだけ自然に見えるように無理に笑顔を作った。

「良かった。」

お兄ちゃんは微笑みながら私の頭を撫でた。

「私、お昼寝しちゃったかな。」

無駄に明るく振る舞う私に微笑むお兄ちゃんの顔。その顔に、轍の中にあった、踏みつけられたように潰れた蓮華草の花が浮かび上がってきた。

「う、うん。」

お兄ちゃんの顔が曇り始めた。私の目を凝視している。何かを探っているようだった。私はその強すぎる視線に耐えられず戯けて言った。

「あー私また怒られちゃうな今日も。」

「今日も?」

「私ね、たまに急に眠くなって、庭石の上とか、納屋の中とか、竹林の中とかで眠ってしまう時があるの。夜まで眠ってしまって、家族に怒られた事が何度もあるの。」

「あ、そうなの!」

お兄ちゃんは妙に嬉しそうに言った。お兄ちゃんから殺気に似た緊迫感が消え、穏やかさが戻った。私はホッとしながらランドセルを背負って言った。

「じゃ、私帰るね。さようなら。」

「さようなら。またね。」

お兄ちゃんは手を振った。私も力一杯微笑んで、手を振った。

私は歩道も無い、畑と森と林と1、2軒の民家しか見えない、もうほぼ夜なりかけて暗くなったいつもの帰り道を歩き始めた。歩きながら、お兄ちゃんの言った、

「さようなら。またね。」

が気になってきた。

「またね。」

無限にこだましているように何度も頭の中に響いた。そのこだまが段々と収まると、いくつかの感覚が頭の中を一瞬の内に吹き抜けていった。潰れた蓮華草、焼けるように熱かった腕の感覚、風変わりなナンバープレートの白い車、投げ飛ばされたような衝撃、黒い長靴、マジックテープの音、色々なところの痛いような感覚。そして、

「世の中ってそんなもんじゃないの?」

という無感情に近い冷淡な声。

それでも私はまだ信じたくなかった。信じたくない気持ちを叩き割ろうとするようにあの時の言葉が蘇ってきた。

「世の中の厳しさ教えてあげる。」

来た道を振り返り、お兄ちゃんといた辺りの草原へ視線を上げた。いつもの風景以外は何もなくなっていた。私は変な夢でもみてしまったような気持ちになった。

ふと急に暗さが怖くなってきた。家までの道を走り始めると、お兄ちゃんの「またね。」がまた頭の中をこだまし始めた。そして思った。お兄ちゃんはまたいつか私を眠らせに来るのだろう、と。


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