空 第11話

〈 味噌汁 〉
「なんだ、何も持ってないじゃねーか。」
秀夫は急に聞こえてきた人間の声におどろいて体を起こした。
「生きてたのか。」
足元に立っている男が、荷物を私の胸のあたりへ放り投げながら言った。その男は、黒く焼けた肩の筋骨が隆隆としていたが、長く生やした髭のせいで老人に見えた。
私が怖気付いて何も言えないでいると、男は私の顔を覗き込みながら言った。
「ライ病だな。いつ罹った?」
秀夫は身構えた。
「お前を虐めたり殺そうなんて思ってない。そもそもここには誰も来ない。昔の戦の首塚があるとかないとかで、気味悪がって誰もこの辺りには近寄らないんだ。」
秀夫は少し安堵しながらも、この異様な風貌の男から異様な恐怖を感じた。風貌とは裏腹に、声は細くしゃがれていた。幽霊のような、どこか生き物ではないような異様さが漂っていた。
「誰も来ないという事は良いこともある。これを見ろ。立派なもんだろう。」
男は小さなカゴの口を秀夫に向けた。小さなキノコが詰まっていた。
「向こうに千本しめじが群生してるんだ。 こうして少しずつ、もらっている。」
「誰からもらってるんですか。」
「人ではない。聞いてみるんだよ。共に生きるためには、取りすぎてはならないだろう。」
幽霊ではなく、仙人のような人に見えてきた。
「それでいつ罹った。」
「おそらく、2年くらい前くらいです。」
「痛むのか?」
「あまり。」
秀夫は軽く首を振った。そして、自分の腕の赤い斑点がまた少し大きくなって気づき、袖を捲って両腕を日にかざしてよくよく見ながら言った。
「少しずつ感触が変わってきたというか、無くなってきてるような。」
「名前は。」
男は淡々と質問してくる。秀夫がどう名乗って良いのか迷っていると、
「心配するな。どう呼べば良いのか、ということだ。」
男は早く答えろと言わんばかりに、やや語勢を強めて言った。
「秀夫です。」
「秀夫は食いたいか。」
秀夫の答えに間髪入れずに男が言った。
「はい。」
「ではついて来なさい。」
「は、はい。」
ここでもう何も食べず飲まず居ようとしていたのに、呆気なくついて行っている自分。秀夫は何が起こるか分からないなと思いながら、山奥の方へ進む男の後をついて行った。
男の名前は吉野というそうだ。おじさん、と呼んだら、そう呼べと言われた。
程なくして少し開けた野原に出た。少し先にトタンで覆われた小さな小屋が見えた。
小屋の中は畳二畳程で、 高さは10歳の秀夫と同じくらいだった。
吉野は小屋の隣に敷いてあるトタンの上の石を持ち上げ、トタンを横へずらした。するとその下は竈門のようになっていて、その燃え殻からはまだほんの少し煙が立っている。竈門と言っても、土を楕円形に少し掘ったような、簡単なものだった。
吉野は小屋の中から藁を一掴みして3つ折りにし、その竈門のようなところへ焚べて、息を細くして拭き入れ始めた。煙が立ち始めると、小屋の裏に並んで置いてあった枝を何本か焚べ入れた。そして、ずらしたトタンの近くに置いてあった2つの長い楕円形の岩を焚き火の両端に置き、鍋を置いた。
吉野はあっという間に味噌汁を作った。吉野の表情は全くわからない。長い髭のせいなのか、笑いもせず、怒りもせず、淡々としていた。
「茶碗は無い。先に食え。」
焚き火のそばに腰を下ろしている秀夫の前に鍋を置くとすぐに、秀夫に背を向けて腰を下ろした。
鍋の中には大根の葉とキノコが見えた。
「いいんですか。ありがとうございます。」
秀夫はそう言うと、鍋に口をつけようとした。その時腹が減っていて仕方がなかったが、やはり思い直して、鍋を置いて言った。
「やはり、吉野さんがお先に。私は余りがあったらで。」
そう言うと、間髪入れずに吉野が言った。
「余るわけがない。余るほどなど取るわけがない。半分は食え。」
そう言って吉野は一瞬振り返って、顎で促した。吉野の目は優しかった。
秀夫は鍋の取手近くに口をつけた。家のとは違うが、とても美味しい味噌の味だった。喉に、胸に、腹に染み渡ってくる。そして、ライ病の私を毛嫌いするどころか、良くしてくれるのはどうしてだろう。茶碗が無かったからと、同じ鍋で先に食べさせてくれた。しかも、僕の方が先にだ。
「美味しいです。この味噌は吉野さんが?」
「まさか。」
吉野は少し突き放すように言った。ではどのように手に入れたのですか、と聞いてみたかったが、それを聞いても、もう先の無い自分には意味のないことだと思い直して、口を噤んだ。
食事が済むと、程なく辺りは暗くなった。この数日の間に、寒さが増して、焚き火の側からは離れ難かったが、そうもしていられないような気もしていた。
「吉野さん、ご馳走様でした。それでは。」
秀夫はやっと決心したように立ち上がった。
「どこへ行く。」
「先程吉野さんと今日お会いした場所です。」
「冷えるだろう。」
「はい。でも茂みの中はいくらかはマシです。」
「今日はここにいてもいいぞ。」
「ありがとうございます。」
ありがとうございますを言いながら、ここへ留まるか去るかを考えた。去ればあと数日で終わる、留まっても至る所は同じだが、数日より長く生きられるかもしれない。どちらでもいい。それなら長い方を選ぶことにした。
「ではお言葉に甘えて。ありがとうございます。」
それを聞くと吉野は小屋のトタンの囲いを1メートルほどずらし、焚き火の火が消えかかった竈門が小屋の中は入った。そして竈門以外の面に敷物や藁を敷き直し、中に入るよう促した。
吉野と初めて会った時、声は細くしゃがれていたが、段々と太くなって来ているのに気付いた。意外と若い人なのかもしれないなと思った。
秀夫は真っ暗なその小屋に入った。2人が横になると隙間がなくなるくらい狭いが、竈門の地熱でとても暖かかった。しかし、トタンの摩擦で、耳の下の首のあたりが痒くなりそうな音が起こる。身動きの取れない小屋の中では逃げ場がない。さらに少し強い風が吹くと、そこかしこでトタンの屋根や囲いがカタカタと揺れだした。流石に小屋が飛ばされないか心配になってきた。
「嵐の日、この小屋壊れませんか?」

「今日は問題ないだろうが、嵐の日はたたむんだ。この小屋など、すぐに解体できる。解体して畳んで近くの太い杉の木に巻き付けておく。そうすれば飛ばされない。そして、 夕方まではこの近くの洞窟で過ごして、夜は町の方へ降りて、夜中は民家の防空壕の中で過ごす。民家の防空壕といっても、漬物や味噌の貯蔵庫になっている防空壕しか行かないがね。味噌や漬物を家の人が取りに来るのは飯の支度時だけだから。その時に味噌瓶の表面を掬うように少しだけ頂戴してくる。漬物も少しだけ。それが先程の味噌。10日ほど前の嵐の時もそうしてたんだよ。」
「え、泥棒なんですか?」
「お前だって食っただろう。お前もだ。」
「そうですね、知らぬ間に。」
数日前に他所の畑から芋を盗んだことを思い出し、もうすでに私は泥棒だった、そう思い直した。
「親は、家はどうした?」
「います。でも、もう帰れません。半年くらい前から家の一番奥の納戸から出るなと言われました。物音も立てるな、声を出すな、兄弟とも誰とも話すなと。この前の嵐が去った日の夜、外へ出されました。味噌のおにぎりを持たされて、もう戻るなと。」
「そうか。」
キキッ、というトタンの摩擦音に加えて、近くでコオロギの声がした。トタンのカタカタをかき消すくらいの大声で急に鳴きだしたコオロギの鳴き声が一段落すると、吉野が言った。
「これからお前はどこへ行く。どうするつもりだ。」

「分かりません。最期は眺めの良いところで、と思って来ました。だからここへ登ってきました。そして、何も食べずに座っていれば、そのうちに自然と死んでしまうと思っていました。」
秀夫は淡々と答えた。淡々としながらも、先程の温かい味噌汁と、今暖かい小屋の中で横になれていることで、思いの外、体が喜んでいる気がしてきた。
「でも、吉野さんの味噌汁で、数日多く生きられてしまいそうです。」
秀夫の声は自然と明るくなった。
吉野は一度深く息を吸うと、急に早口になって言った。
「ただ、それは簡単じゃ無いぞ。どうしてもと言うなら教えてやるが。ここから東の方へ下ると沢山蔦が生い茂った場所がある。夏程はもうしならないが、冬を越していない部分なら三本くらい束ねて縄にして首を括ればいい。その方が苦しまずに済む。」
「大丈夫です。」
秀夫は「括ればいい」という言葉を遮るように言った。死体を晒すような死に方はしたくなかった。誰にも見つからずに消えたかった。
「まあでもねぇ、お前はもう死んでいるんだよ。」
「え、僕はまだ生きています。」
「いや、死んでいる。半年くらい前に。少なくも失踪たことになっているはずだ。」
秀夫は認めたくなかった。認めたくなくても認めざるを得ないことも分かっていたが、他人から突きつけられると腹立たしく、余計に悲しくなった。
しばらく言葉も出なかったが、この半年の間に起こった事を思い起こしながら、鈴木秀夫が徐々に消されていっていたことを一つ一つ思い起こした。
「そうですね。確かにそうかもしれません。」
秀夫はそう言うと吉野を見た。
吉野はもうすっかり眠ってしまっていた。
秀夫も10日前の嵐の夜を思い出しながら眠りについた。

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