見出し画像

空 第1話

〈 曽祖母 〉


私は丸い背中を眺めていた。
今日は母や祖母に連れられて、曽祖母の家へ来ている。
曽祖母の家へ来る時は、大抵お墓参りもする。今日はお彼岸(おひがん)のお参り。

お彼岸は、自然や生き物、ご先祖様に感謝する日らしい。
お墓はお化けがいるかもしれないので私はあまり好きではないけれど、このひいおばあちゃんのお家へ来ると、お家の方がいつも美味しいケーキを焼いていてくれているので、それが楽しみだった。
そして、ひいおばあちゃんの家へ来る途中、毎回母が言っていた。
「おばあちゃんももう98だから、元気で会えるのも今回が最後かもしれない。だから沢山お話ししておきなね。きっと良い思い出になるよ。」

墓前で手を合わせ動かない曽祖母を、祖母や母も静かに見守っていた。
顔は見えないが、強く祈るその背中。
私は、山の中腹の深い暗い森の中にあるこのお墓が好きでは無かった。早く帰りたかったが、母や祖母がひたすら静かにしているので、私も待つことにした。


遠くからカラスの声が聞こえた。元々明るくは無い場所だが、どことなく陰りが増してきたきた。分厚い雲が空を滑っていく。
この山の中には転々と墓が散在している。少し離れた所に見える墓に何羽かカラスが集まっているのが見えた。先ほど鳴いたのはあのカラスだろうか。
今度は違う方向から、別のカラスの声が聞こえた。
その声をかき消すように急に木々が風に騒めいた。
「天気が悪くなりそうだから、そろそろ帰りましょうか。」
そう母が言うと、母や祖母に支えられながら、曽祖母はゆっくり森の中の小道を下り始めた。
お墓へ行く道では、見渡す限りの田園風景を横目に、綺麗な草花を見つけて楽しんでいたが、帰り道は天気が心配になり皆足早になった。
曽祖母の家へ戻ると、すぐに雨が降り出した。

「危機一髪だったね。おばあちゃんを風邪引かすわけにはいかないからね。」
居間へ続く廊下を歩きながら母が言った。
「本当だよ。なんでもない風邪でも、母さんくらいのあの歳になると命取りになりかねないからね。」
祖母の声も母の声も、耳の遠い曽祖母には全く聞こえていないようだった。
曽祖母は、居間へ着くと自分の腰掛けへちょこんと座り、手の届くところに用意されている茶櫃(ちゃひつ)を開けて用意を始めた。
「おばあちゃん、私がお茶淹れるね。」
母は曽祖母の耳元で大きな声でそう言うと、茶櫃の中の湯呑み茶碗をいくつかテーブルに並べて茶を注いで行った。

母や祖母が曽祖母のお家の方とお話ししている間、妹とあやとりをしている曽祖母を見ていた。会う度に小さくなっていくと感じる曽祖母。
母が車の中で言っていたことが頭をよぎった。
皺のあるゆっくり動く手。
このお婆ちゃんとこうして遊べるのも今日が最後なのだろうか。
茶櫃の近くに、俳句の本とその上に眼鏡が置いてある。
本当に最後なのだろうか。そんな気が全くしなかった。


「ねえお婆ちゃん、今までで一番楽しかったのはどんなことですか。」
聞こえるように、私は大きな声で聞いてみた。
「そうだね、沢山あるからね、一番って選ぶのは難しいけど、子どもが生まれたり孫が生まれたり、ひ孫が増えたり、嬉しいことは沢山あるよ。こうやって良ちゃんも遊びに来てくれて嬉しいよ。」
曽祖母にはひ孫が私の知っているだけでも10人以上はいるのに、私の名前を呼んでもらえて嬉しくなった。
「お婆ちゃんが子供の頃は何が一番楽しかったの。」
「そうだね、良く覚えていないけど、お彼岸のぼた餅とかおはぎ楽しみだったよ。」
「そうなんだ。じゃ、私はもうすぐ四年生なのだけど、私くらいの時はいつも何をしていたの。」
「そうね、家の手伝いで畑仕事をしたり、下の兄弟たちの面倒を見ていたりしていたかな。」
「学校は行かないの?」
「女の子は行っている人が少なかったからね。」
学校が嫌いな私は、学校へ行かなくていいという事を一瞬羨ましく思ってしまったが、その代わりにずっと家の仕事をしなければならない事を思うと、ゾッとした。昔の女子は大変そうだ。
「そういえば、奉公に出てからは、1度だけ寄席に行かせてもらった事があって、あれは楽しかったな。」
「奉公って何?」
「10歳になる少し前だったかな、ご縁があってね。あるお屋敷に行く事になったの。今で言うと、住み込みで働きに行く事だよ。」
「え、おばあちゃんは私と同じ位の時からずっと働いていたの?お家に帰れなかったの?寂しかった?大変だった?」
「田舎から初めて東京のそのお屋敷へ行った時は、全てが驚きでね。まあ、でも帰ることはできないし、家が恋しくても、どうしようもなかったのよ。当時はどこにいたってきっと大変だったの。だから、あまり特別に大変だとは思わなかったのよ。」
「そうなんだね。」
「良かったことは、字が読めるようになったこと。田舎にずっといたら、読めるようにならなかっただろうね。お屋敷の人でたまに教えてくれた人がいて、読めるようになってね。本も割と沢山あるお屋敷だった。勝手に読んだら叱られるから一人で本を開くなんてことはなかったけれどね。」
「えー!」
私は文字って日本に生まれたら誰でも読めるものだと思っていた。昔は女の子は字が読めない人も多かったと聞いて驚いてしまった。
「お嫁に行くことが決まった頃から、奥様が色々な所へお供として私を付けてくださってね。寄席に行かせてもらったり甘いもの食べさせてもらえたり、あれは楽しかったな。」
「だからお婆ちゃんは落語が好きなんだね。結婚は嬉しかった?」
「嬉しいとか嬉しくないとか、昔はそんな事ではないのよ。親が決めることで、頃合いの年になると皆んな結婚したの。嫁いだお家で子供を産み、育てて、お仕事して。それが幸せなんだよ。今の人とは違うかもしれないけどね。」
このお婆ちゃんは、お家を守る戦国時代の妻のような人だと思いながら頷いた。
「じゃ、一番悲しかったことは?やっぱり戦争なのかな。」
「戦争も大変だったけど、戦時中は誰もが大変だったの。都会の人は食べるものが無くて大変だったと思うけど、私は田舎に嫁いだから、都会の人よりは食べるものも少しはあったと思う。だから私は大変だったなんて言えないかもしれない。」
「ふーん、そうなんだね。」
私がそう言ったのと同時に曽祖母は
「秀夫が、、。」
と何か言いかけて口を噤んだ。
「ひでお?」
と私が聞き返すと、祖母が急に
「じゃあ母さん、また来ます。段差と風邪に気をつけてね。」
と、私と曽祖母との会話を強制終了させた。祖母はそれ以上何も言わなくていい、と言わんばかりの少し怖い顔で私を見た。触れてはいけない事を聞いてしまったようだ。私もそれ以上は聞かずに、帰り支度を始めた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?