空 第2話

〈  秀夫  〉
私は帰りの車の中でも秀夫のことが気になっていた。
妹は私の隣で完全に熟睡している。お墓参りで疲れたためか、祖母も母も無口になっていた。到着までもう暫く時間がかかるので、今なら誤魔化されずに答えてくれるかもしれない、そう思い、勇気を出して聞いてみた。
「秀夫さんって誰なの?」
言った瞬間、空気が冷たくなったような気がした。顔を見合わせた祖母と母だったが、信号が青に変わり、母が運転をし始めると、空気が少し温くなった気がした。それでも母は私には何も話す気が無いようだった。
「秘密なの?」
私は祖母に聞いた。
「秘密というか、どうして?」
「ひいおばあちゃんに聞いてみたの。一番楽しかった事とか、一番悲しかった事とか。良子のおじいちゃんは、一番悲しいのは戦争と言うから、今日ひいおばあちゃんとお話ししている時もそう思って、戦争が一番悲しかったの?って聞いてみたけど、ひいおばあちゃんはそうじゃ無かったみたいだった。秀夫ってひいおばあちゃんが言った気がしたの。」
「そういう事だったのね。」
祖母は大きく一呼吸してから続けた。
「おばあちゃんは8人兄弟姉妹でね。だから、あのひいおばあちゃんには、8人子供がいたの。私は兄弟姉妹の中の上から2番目。秀夫は下から2番目なの。」
「秀夫さんはおばあちゃんの兄弟なのね。今どこにいるの?」
「分からない。どこへ行ったかなんて。」
「どういう事?」
「昔、ライ病という病気が流行ってね。その病人が家からでると、その家は村八分になるから、家から出て行かせたんだよ。」
「出て行かせるって?」
「いつだったかな、秋だったか、冬になってはいなかったと思うけど、大きな味噌の握り飯を持たせたって言ってた。人目につかないように、夜遅くに母さんが一人で送り出したと。秀夫は九つか十くらいだったかな。おとなしい子だった。」
「秀夫さんどこに行ったの?」
「だから、分からないよ。兄さんは犬に喰われてしまっただろうって言ってたけど。ライ病の人は施設に集められて、そこで生活しなければならなかったけど、その施設が遠かったから、当時はそうするしかなかったんだって。」
「そんなこと、信じられないよ。」
「昔は、今では考えられないような大変な事が沢山あったの。この話はもうおしまい。このお話は、あのお婆ちゃんとしないでちょうだいね。今でも十分長生きだけど、元気でもっと長生きしてもらいたいから。」

私は絶句してしまった。
自分と同じくらいの年の子がある日突然、親からおにぎりを渡されて、家に帰ってこないでと言われる。病気のせいで、誰とも会うことも話すこともできない、助けなんて絶対得られない状況の中に放り出される。これは暗に、一人で静かに死んでほしいと言われているようなものだ。そんな秀夫の絶望を思うと吐き気がしてきた。
もし私がその状況になったらどうしただろう。私は空想し始めた。


暗い夜道を歩き始めた。
振り返ると小さな人影が涙を拭っているのが見えた。
人に見つかってはいけないから声を出して泣いてはいけないと思うけど、涙が止まらなかった。
お墓参りで通った、広大な田園の中の道を歩いて行った。
家々がどんどん小さくなった。
もう戻れない私の家。もう会えない私の家族。
私なら、田の畔道に座って、家や故郷を眺めたかもしれない。
しんと静まり返った広い田園の片隅に座り、月明かりに照らされた故郷を、最後に目に焼き付けておこうとしたと思う。
夜が明ける前に私を誰も知らない所へ行かなければならない。
そう思ってまた歩き出したのかもしれない。
小さな荷物を肩に背負おうとしたその時、足元の稲の切り株の間から伸びた草が何本か見えていたかもしれない。
そして、その草をむしり取りたくなったかもしれない。

急に聞き覚えのある犬の鳴き声がした。祖母の家に帰ってきた。
私はこの日から、秀夫のその後を妄想する日々が始まった。


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