空 第18話

〈 トランプ 〉

病室で朝ごはんを食べ終わると、点滴の残量が無くなっていた。

ナースコールを押した。

「はーい、どうしたかな?」

婦長さんが出た。

「点滴、無くなりました。」

「はーい。すぐに行くね。」

いつも通りの静かな朝だ。ドアの外から聞こえてくるのは、食べ終えた食器を配膳題に戻すために歩いている人の気配だけで、急いでいる足音は一つもない。今はみんな、とてもゆっくり歩いている。


しかし、今日の夜も明けない暗い頃、廊下の方が騒がしかった。会ったことが無いお医者さんも何人も通るのが、病室のドアの小窓から見えた。夜中に何かあったみたいだった。


「佐々木さん、点滴取るよ。良かったね。」

看護婦さんがニコニコしながら病室に入ってきた。私は満遍の笑みで頷きながら、針の刺さった左手を差し出した。看護婦さんは手早く包帯をほどき始めた。今日の明け方、何があったのか知りたかったが、看護婦さんの笑顔を見ていたら何となく聞くことができなかった。


看護婦さんが病室を出て行くと、久しぶりに左手を思い切り振り回した。しばらく振り回した後、病室の入り口のドアの方へ振り向くと、少し空いたドアの隙間の向こうに、クスクス笑っている顔が3つ縦に並んでいるのが見えた。一番上はサトシ君だった。

ドアの方に向かうと、3人ともパッと散っていった。ドアを開けて廊下に顔を出したときには、3人の姿は無かった。

私はそのまま隣の病室のドアをノックもせずに開けた。

「見たな?」

私はサトシ君を睨みつけながら言った。

「ドアが開いてて見てた人いたから、仕方ないじゃん。

サトシ君はニヤついていた。

「恥ずかしかったじゃないか。もう仕方がないけど。」

私も笑いながら一応怒った。

「面白かったよ。」

一応褒めてるつもりなんだろうか。

「恥ずかしいよ。面白いとか言われても嬉しくないよ。」 

私は笑いながらそう答えると、サトシ君はまた笑った。私も笑ってしまった。


「そういえば、今日の明け方、何かあったのかな?」

私は何気なく聞いた。

「何かって?」

「ほら、沢山お医者さんが通ったでしょう。廊下がずっと騒がしかったよ。」

「ああ、あれか。」

笑顔が急に真顔になった。

「そうだな、ついてきて。静かにね。」

サトシ君はそういうと、廊下に看護婦さんがいないことを確認して静かに廊下へ出た。

病棟の入り口近く個室前に来ると、ずっと閉まっていた部屋のドアが開け放たれ、昨日まではあった、「気配」が無くなっていた。ベッド以外何も無くなっていた。荷物も布団も、昨日まではそこにあった、たまに音を立てていた機械のような物も無くなっていた。


「何年か前は、テレビの部屋でしゃべってるの見たことあったんだけどね。」
サトシくんは空になったベッドをじっと見ながら言った。
「えっ。」

死というものがこんなにも近くにあった事に気づかなかった。サトシ君はずっとこの中を生きて生きたんだね。

病棟の入り口のドアが開いて、お見舞いの誰かのお母さんが入ってきて、サトシ君と私をジロリと見ながら奥の病室の方へ入って行った。

ナースステーションから看護婦さんが出てきて私たちを見て立ち止まった。それを見てサトシ君が言った。


「戻ろう。」
「うん。」

こちらを見たまま立ち止まっている看護婦さんの横を深妙に通り過ぎ、テレビのある大きなお部屋へ向かって廊下を進みながらサトシ君が言った。
「来ない方がよかったね。」

「そんなことない。」
「ここではよくあることだよ。多分僕と同じ病気だったけど、あの子の方が重かった。ぼ、、、。」
サトシくんは何かを言いかけてやめた。


私はかける言葉が見つからなかった。

考えて考えてやっと言った。
「トランプしよう。」


テレビを見ていた3人の小学生も加わり、5人でババ抜きをする事になった。

サトシ君はトランプを混ぜてみんなに配り始めた。サトシ君の細い白い指を見ていたら、つい先程のことを思い返さずにはいられなかった。

自分の病室から10歩か15歩くらいのところで起こっていたことだ。
空になっていたあの病室にも、昨日まではその子のお母さんもいて、お家に帰らないでずっと一緒に居たんだね。そして、一緒にいられる時間がもう少なかった。だから私のお母さんとは違って夜もお母さんと一緒にいられる特別なルールがあるんだね。

「良ちゃん、配り終わったよ。ほら。」

ぼーっとしている私にサトシ君が言った。

「あ、うん。ありがとう。」

慌てていらないカードを抜いた。抜けるカードが意外と少なかった。隣の女の子はすでに3枚しかない。

「ずるい、俺なんか1枚もカード抜けなかった。絶対この子に負けちゃう。ずるい。不公平!」

その女の子の隣にいる男の子が言った。


「不公平」という言葉が急に耳に残って離れななくなった。

特別って、不公平なわけでもないのかもしれない。そして特別な事には、いつも何か大事な理由がある。そう思った。




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