小説 空気 1 帰り道
1 帰り道
枝垂れ桜の枝のように揺れる自分の腕の先に、車か何かに踏みつけられた蓮華草の花が見えた。見えたのはほんの一瞬で、その一瞬見えた光景から、私がなぜか浮かんでいることが分かった。そして、どうしても目が開けられなかった。耳元で誰かの息遣いも聞こえた。
しばらくすると、急に腕が焼かれたように熱くなり、良子は痛くて身震いをした。その時に一瞬見えた光景は、風変わりなナンバープレートと白い車のボンネットだった。
やはりどうしても瞼が重く、またすぐに何も見えなくなった。
「リョウちゃん、熱かった?痛かった?大丈夫?」
いつものお兄ちゃんの声だった。私の腕が車に当たったのだろうか。初夏とはいえ、晴れの日の車の表面はとても熱かった。お兄ちゃんは火傷にならないか心配してくれているのだろうか。
そういえば、私は小学校から帰る途中、たまに道で会うお兄ちゃんと話をしていたのだった。お兄ちゃんは大抵、帰り道にある森を少し抜けたところのあたりにいることが多かった。この辺りを散歩するのが好きなようだった。
お兄ちゃんは私の名札を見て、
「佐々木良子ちゃん、いい名前だね。」
と言ってくれた。だけれども、私はお兄ちゃんの名前を聞いていない。前に聞いてみたことがあったかもしれないけれど、
「お兄ちゃんと呼べばいいよ。」
とその時に言われたような気がする。それはそれで、兄弟が増えたような気がしてきて嬉しかったような気がしたのを覚えている。
お兄ちゃんの仕事は会社員ではないらしいけど、とても大変な仕事と言っていた。みんなのために頑張っているそうだ。あまり詳しくは教えてもらえなかったけど、飛行機がとても好きなようだった。学校でも家でも誰にも話せないようなことでも、お兄ちゃんには何となく話せてしまうようなそんな人だった。
良子はお兄ちゃんの隣に座り、水筒の水を飲もうとした。しかし、振ってみても数滴の水しか残っておらず、悲しそうな顔をして水筒の蓋を片付けた。すると、お兄ちゃんはお茶のペットボトルを良子へ差し出した。そしてそれを飲みながら、2人はアイスクリームの話と、リクルート事件の話をしていたのだった。あれからどうしたのだろう。どうして私の体が浮いているのだろう。
「・・・。」
なぜか声が出せなかった。体にも全く力が入らない。動かせない。そして、お兄ちゃんの声色が変わり始めた。
「大丈夫かい?」
「・・・。」
「くふふ。」
いつものお兄ちゃんからは想像もできない冷ややかな声になった。
車のドアの開く音がした次の瞬間、全身がどこかに叩きつけられたような衝撃が来た。その時は一瞬、座席の下に黒い長靴のような物が見えた。そしてまたすぐ何も見えなくなった。
マジックテープを外す音がした。靴を脱がされているようだ。
体のどこかが痛い。色々なところが痛い。髪を引っ張られているのか、腕なのか、足なのか。
「あのね、世の中ってそんなもんじゃないの?」
耳元のその声はとても楽しそうに言った。この人はお母さんと同じことを言っている、と思った。
「甘くないよ。世の中の厳しさ、教えてあげる。」
「・・・。」
「でも寝ちゃってるか。あははははは。」
声は徐々に小さくなり、何も聞こえなくなた。暗くて何もない、どこか遠いところへ来てしまったように思った。
そして、そんな自分もいつの間にか消えてしまっていた。
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