空 第20話

〈 街 〉

秀夫は車の荷台の上で目を覚ました。もう辺りは暗く、昼は暖かかったこの覆いの下も肌寒さを感じて身震いするほどになっていた。

覆いの隙間から見える景色は、今までに見た事が無いような大きな街並だった。すぐ近くを沢山の人が行き来しているのも見えた。

程なくして、車は小さなお店の前に停まった。もうお店は閉店しているようで、店の中では、母より少し年上くらいの女の人が、箒で掃除をしているのが見えた。

運転席から男が降りて、店内の女の人と話し始めた。

降りるなら今だ。

手早く佃煮をもう一度口に入れ、元に戻し、胸元から馬の木彫りを取り出して置いた。そして、覆いの固定を一つだけ外して、立ち上がらずに、荷台の壁に張り付いて滑り降りた。

片足が地面に着いた時、その女の人が悲鳴を上げた。

「ちょっと、車から誰か出てきたよ、待って、泥棒!」

男は振り向いてこちらへ目を向けると、怒りの形相で走り出した。

秀夫は逃げずにゆっくりと車の横に立ち上がった。逃げてもすぐに捕まりそうだった。逃げようとすることも、それを押さえつけることも大変な労力だ。それなら、逃げないのが一番だ。

男も、秀夫に逃げる気がないのが分かると、段々とスピードを緩めて駆け寄って言った。

「何をしていた?」

「ごめんなさい。」

秀夫は俯いたまま呟くように言った。それを見て苛立ってきた男は声をさらに荒げて言った。

「だから、何をしていた時いていた?泥棒か?鞄の中を見せろ。食ってたのか?」

秀夫は肩にかけた紐を下ろして、鞄の口を開けて男に見せた。

「鞄の中は、何もありません。」

そこの方に干からびた大根のかけらがあるだけで、他には何も無かった。

「でも、二口だけ佃煮を食べました。」

「何だって?」

男は凄みながら言った。秀夫は男の威圧感に怯えながらも、淡々と続けた。

「それから、河の近くから、ここまで乗せてもらっていました。ありがとうございました。そのお礼にこれを。お世話になった人へ渡しなさいと、親類が作ってくれました。」

そう言って、車の荷台の中へ手を伸ばし、馬の木彫りを取り出して渡した。

吉野を友人と言おうか、親類と言おうか迷った。親類の方が吉野は喜んでくれるかもしれないと思った。

男は馬の木彫りを見た。

秀夫は付け加えた。

「道中の安全祈願です。」

「こんなもんが?」

男は呆れたような顔でこちら方を見ながら、木彫りの板を割ろうとした。その時、

「警察連れて行きなさいよ。」

お店の女の人が来て言った。

「そうだな。」

男はそう言うと、手の力だけでは割ることができなかった木彫りの板を地面に投げつけようとした。秀夫は慌てて言った。

「警察では隔離病院への行き方を教えてもらえるでしょうか。」

「は?」

男は一瞬立ち止まった。秀夫は手拭いを解き、いくつかの大小の虫刺されを見せた。

すると、女の人は小さく悲鳴を上げて口元を押さえ、汚いものを見るように秀夫を見た。

男は一歩後退りして、手で払う素振りをしながら言った。

「そんなの知るか。さっさと行け。」

秀夫はこの清々しいほど素直な反応を内心薄ら笑いながら、無表情な顔を男に向けて言った。

「はい。交番はどちらですか。」

「この道を駅の方へ、こっちの方へ進んでいけばある。」

一刻も早く立ち去ってほしいようだ。僕は本当に嫌われ者だと秀夫は思った。

「ありがとうございました。」

秀夫は頭を下げて、教えてもらった方へ歩き始めようとしたが、やはり言わずにはいられなくなって、振り返った。

「あ、それから、僕が持っていた物だから、捨ててしまいますか?その馬の木彫り、捨てるなら僕にください。僕にとって、今、一番大事な物なんです。」

秀夫は真剣だったが、男は見下したように言った。

「いや、返さない。」

「では、大事にしてください。運転の途中で事故に会いませんように願っています。ありがとうございました。」

秀夫はまた淡々と言い、深く一礼した。

「うるさい。早く行け。」

秀夫は手拭いを巻きながら歩き出した。

「何なのあの子。気持ちが悪い。」

そう吐き捨てて、女の人は店へ戻って行った。

「気持ち悪い、か。確かに。粗末にしたらバチが当たりそうな気がしてきた。」

男は車の物入れの蓋を開け、木彫りの馬を仕舞い込んだ。



秀夫は初めて都会へ来た。路地のあちこちでは、まだ明るい所も多かった。

閉店のために棚を店の中へ仕舞う人、戸を閉めてカーテンを閉める人、また明日と挨拶して帰る人、風呂屋に入っていく人々、料理屋へ入っていく親子。

路地の先は大きな通りへ繋がっていた。大きな通りと並行して川が流れ入るようだ。前方に橋が見えた。駅の方向はどちらなのかと左右をしばらく見回していると、

「電車に乗り遅れる!」

そう叫んで連れに手を振って走り出した男が目に入った。この男に着いて行くことにした。しかし、この男の足は早かった。どんどん背中は離れて行った。

その男の小さくなった姿も人並みに埋もれて見つけられなくなると、秀夫は立ち止まり、上がった息を落ち着かせた。落ち着かせながらあたりを見回すと、そこは広場で、目の前にあるお店の並びは全て屋台店だった。沢山の人々が蠢く通りを歩いた。人が多すぎるせいか、自然と自分の格好が気にならなかった。身なりの良くない人も沢山いた。そして、虫刺されにも誰も気付かなかった。誰も僕を見ていなかった。何という心地良さだろう。

それから、食べられるものを探しながら当てもなく歩いた。遠くから喧嘩する2人の男の声がした。背後から走って来た警官が2人、秀夫を追い越すと先の方にあった人集りの中に消えた。

人集りが段々と小さくなり、中から血だらけの男が足を引きずりながら出てきたが、急にどさっと倒れ込んだ。警察の一人と人集りのうちの何人かも手伝い、担ぎ上げられたその男はどこかへ連れて行かれた。

さらに人だかりが減ると、残りの警官の一人と浴衣を着た大きな男が、暴れて逃げようとする男を押さえつけていた。その大きな男の手には角材のような棒が握られていた。

秀夫は大きな男の背後に駆け寄った。力士とはこんなにも大いのかと、感動の眼差しで見上げた。

「おい、そこの子供、離れなさい。」  

警官が叫んだ。力士は振り返り、秀夫に向かって顎でしゃくった。押さえつけられた男は必死にもがいているが、力士の顔は涼しそうだった。何という強さだろう。

秀夫は警官へ近寄って言った。

「あの、えーと、ライ病の隔離病院はどこへ行けば入れますか。」

恐る恐る上目遣いに警官の顔を見上げた。すると、警官は一瞬秀夫の顔を覗き込み、手ぬぐいからはみ出た大きな虫刺されの端を凝視ってしてから言った。

「あ?ライ病?こっち来るな。親に聞け。」

秀夫は強い視線に怖くなり、俯いて言った。

「親は死にました。誰も居ません。」

「の割には、服がまともだな。本当か?どこから来た?」

「川向こうの土手です。そこももう居られなくなりました。」

「今からあいつを連行するから、お前にかかっている場合では無いんだ。」

子供の割には妙な話し方だと思いながら、警官は秀夫を追い払おうとした。秀夫は諦めなかった。

「そうですか。では後ほど交番の他の方へ聞きに行きます。」

そう言うと、連行の後からついていくそぶりを見せた。すると警官は慌てて話し始めた。

「あ、待て。数日に一度、朝に、この広場には入院していく患者を乗せる車が来る。乗れるかどうかは分からないが、その車の人に聞いてみな。朝だぞ。」

「ありがとうございます。」

秀夫は一礼して、来た道を戻り、川の土手へ向かって歩き始めた。



川と並行に伸びる大通りから川の土手方向へとつながる細い路地へ入ると、多くの店は閉まり、暗くて何も見えなくなった。しばらくすると段々と目が慣れて、民家の小窓から漏れ出る微かな灯りでも周りの様子がわかるくらいになった。気がつくと、もう川の土手のすぐ手前までたどり着いていた。

土手に入り、眠る際の風除けになるよう、出来るだけ乾いた背の高い草の茂みを探して歩き始めると、どこからか3人の男の声がしてきた。

「誰?」

「見ない顔だな。」

「ここらは私らの場所だから来るな。」

秀夫は恐る恐る言った。

「一晩だけでもお願いします。」

秀夫の声に蓋をするように一人が言った。

「何かあるか?食い物とか金とか?あるなら考える。」

「何も持っていません。鞄の中も、ほら。」

秀夫は鞄を逆さにして見せた。暗闇の中でも白い秀夫の鞄は異様に目立った。

「じゃあっちへ行け。」

もう一人が怒鳴った。

「お願いします。」

お腹が空いて動けなくなってきていた秀夫は、とにかく横になりたい一心で、もう一度言った。すると、最初に声をかけてきた男が言った。

「どこから来た?なぜ一人だ?」 

「どこから来たかは覚えていません。家を追い出されました。」

「子供が?捨てられたのか?それとも売られたのに、辛くて逃げ出してきた?」

「病気になったので、家にいられなくなりました。」

「病気?」

「明日の朝、隔離病院への乗り物が広場に来るかもしれないのです。朝早くここを出ます。だから、一晩だけ、この近くの枯れ草の中で眠らせてください。お願いします。」

「お前はライ病か。」

「はい。でもこの病気は実はあまり人に移らないようです。」

「嘘つけ。早く出て行け。来るな。」

どこからか石が飛んできて秀夫の頭に命中した。次は太ももに当たった。

「分かりました。」

秀夫はカバンの紐を肩にかけた。すると、また最初に声をかけた男の声がした。

「ああ、そういえば橋の下でライ病の人を何人か見かけた。あっちだ。行け。」

秀夫は土手沿いの細い道を先の方に見える橋に向かって進んだ。



橋の下は全くの暗闇で何も見えなかった。橋の下へ行くのは怖いので、橋に近い土手の、短い草がまばらに生えた土の上に寝転んだ。

曇っているのか、空には星がひとつも無い。目を瞑っていると、地面から足音が聞こえてきた。こちらへ近づいてくる。今回も逃げない事にした。橋の下の、ライ病の人かもしれない。もしそうなら話をしてみたいと思った。

足音は秀夫の近くで止まった。すると急に秀夫の髪を引っ張りあげて、小さな松明のような灯りを秀夫の顔にかざした。秀夫が目を見開くと、松明の向こうに、顔のほとんどが赤く爛れた男の顔が見えて恐れ慄いた。その恐れは男にと言うよりは、将来自分もこうなるのだと言う事実を見せつけられたと感じたからだった。

「お前は一人か?」

「はい。明日の朝、隔離病院への乗り物が広場に来るかもしれません。ですから、朝早くここを出ます。この近くに寝させてもらえませんか。」

「あんなところへ行くのか?」

「あんなところ?」

「ああ。病院なんて言うと聞こえはいいが、お前が想像しているような病院とは違うぞ。実態は、高い塀に囲まれた土地に、ライ病の患者だけ集められて、ろくな食事もないところで生活させられるんだよ。金を稼げと労働もさせられる。ましてや治療なんてほとんど無い。そして、そこから二度と出られない。行きたいか?」

男はまるで隔離病院へ行ったことがあるような口ぶりで秀夫に話した。

「そんなの嘘です。僕のライ病の友達は病院へ行くといっていました。親に連れられてそこへ行きました。分かっていたら、連れて行かないでしょう。」

秀夫は少し苛立った口調になった。すると男はそれを宥めるように言った。

「連れて行く時は、そいつの親は知らなかったかもしれない。でもな、今は分かっているんじゃないのか。手紙はやりとりできるらしいから。」

僕の親は、隔離病院がどんな所か分かっていたのか。だから、連れて行けなかった。もしこの顔中爛れた男の言うことが正しいなら、母親が僕を隔離病院へ入れなかった理由が何となく分かった気がした。久しぶりに、母親のことを思い出した。そしてじわりと暖かくなった。この男の話を信じてみたくなった。

信じてみたくなると、隔離病院へ行きたい気持が消え始めた。それを感じたのか、男はさらに言い加えた。

「あっちは地獄だぞ。」

秀夫には疑問が湧いてきた。

「では、ここは何ですか。隔離病院が地獄なら、ここでの生活は何ですか。」

「そうだな。天国と言いたいが、ここも天国とは程遠い。だが、自由はある。夜ならどこへでも行ける。橋の下には面倒見の良いお爺がたまに来て、食い物を持ってきてくれる。まあ、お爺の仕事も手伝わないといけないがね。仕事と言っても、人に言えるようなもんじゃないが。大丈夫。一度やれば、二度目からは慣れる。」

秀夫はさらに絶望的な気持ちになった。隔離病院は地獄で、ここにいると自分は化け物になってしまうようだ。

秀夫はいつの間にか涙を流していた。

「一晩考えても良いですか。ここで眠ってもいいですか。」

「俺たちだって、お前に来て欲しいわけでもねえよ。勝手にしろ。」

男の目には秀夫を利用してやろうという意図がありありと見えた。秀夫は母親の暖かさを一瞬でも感じたことを後悔した。とてつもなく寂しく辛くなった。

背中を丸めて泣いている秀夫を、良子は見ていられなくなった。秀夫の想像をすることがどうしても辛くなった。良子はいつしか、秀夫のことを思い出すのを止めるようになっていった。




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