小説 空気 14 隣

今日もお兄ちゃんは現れなかった。
安堵しながらお家の前まで来ると、家の後ろの杉の木に巣のある大きなカラスがこちらを見ていた。この子は鳴くと「カアカア」といつも鳴く。だから、私は自分の中で、カアカアちゃんと呼んでいた。
「ただいま。」
と呟いてお家に入った。

玄関を開けると、いつもよりやけに静かだった。お母さんの靴が無い。居間を覗くと、片隅に用意してあった大きな荷物も無くなっていた。
その時
「カアカア」
というカラスの声が聞こえた。
お母さんは出産のため入院したらしい。

薄暗い台所へ行くと、置き手紙もあった。
「病院へ行きます。
何日か帰らないと思うけど、
おばあちゃんに頼んだからね。」
いつも達筆なお母さんの字が、3段目だけ異様に蠢いていた。

おばあちゃんの部屋からは、テレビのニュースと妹の声が聞こえた。
この時間になってもおばあちゃんは動く気配がない。
夕飯を作るということを頼まれたとは思っていないようだ。

窓の外は暗くなりつつあった。暗い中遠い畑まで行くのは心細い。家の近くで採れる物だけで作ろうか。

玄関の床下の収納の戸を開け、自由に使っても良い道具箱の中から、小さな鎌を取り出した。箱をしまおうとした時、収納の背板の奥から 
「ミャーミャー」
と声がした。道具箱の大きな鉈や鋏も取り出して背板を取ると、飼い猫の白ちゃんが小さな子猫達に囲まれて横たわっていた。
「最近見かけないと思ったら、ここにいたのね。」
そう呟いて、台所へ戻り、シンク下の収納から味噌汁の出汁用の大きな煮干しを一掴みしてシロちゃんの近くに置いた。
「頑張って。」
そうまた呟いて戸を閉めた。

鎌とカゴを持って外に出ると、家の周りを右回りに回った。生姜と茗荷を採った後、最後の角あたりに生えたフキを20本程刈った。

採ってきたものを台所のテーブルに置くと、いつもお母さんがしているように、音楽をかけた。ドビッシーがかかった。
机の横に置いた手提げ袋から、先生から今日もらった論語の本を取り出した。
古い薄めの新書本のような本だった。上の部分が日に焼けて背表紙には少しシミがあった。パラパラとめくると、本の中に小さな紙が挟まれていた。
私はお母さんがいつもしているように、台所にある譜面台のような板に、紙が挟まれていたページを開いて置き、板に付いていた洗濯バサミで抑えて止めた。

フキの筋を取りながら本に目をやった。

「子曰く、質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。
文質彬彬として、然る後に君子なり。」
生まれ持った資質が、学習や修養よりも勝っては粗野になる。
逆に学習や修養で身に付けたものがその人の実質よりも勝っていると、知識はあっても誠実さが欠ける。文と質、両方そろってこそ君子となるのだ。

先生も絵を描いたり、詩を作ったり文章を書いたり、何か作ったりしてるのだろうか。

フキの何本かの筋を取った後、灰汁の着いた手を付近で拭いてから、本のページを適当にめくり、板に止め直した。

「子貢曰く、貧しくして諂(へつら)うこと無く、富て驕(おご)ること無きは如何。
子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富て礼を好む者には若かざるなり。」
子貢が尋ねた。「貧しくても、卑下して諂うとが無く、富んでも驕り高ぶる事のない人は、立派な人と言えるでしょうか。」
孔子がおっしゃった。「そうだね。かなりの人物だね。しかし、まだ貧しくても心豊かに人の道を履み行うことを楽しみ、富んでもごく自然に礼を好んで行う人には及ばない。」

これは、前にお母さんの書でトイレに貼ってあったことがある。どんな意味が書いてあるのかと聞いたら、お母さんが教えてくれた。
「人はどんな時も立派になろうと思えばなれるのよ。」
そう言っていた。

フキの筋を取り終えると、刻んで炒め始めた。

おばあちゃんが部屋から出てきた。
「何を作ってる?」
私が炒めている鍋を覗き込みながら言った。
「フキの炒め物。」
おばあちゃんを少し避けながら答えた。
「味噌汁は?」
お母さんにいつも言うような、召使いに命令するような口調で言った。
「茗荷にするつもり。」
気にしないように淡々と答えた。
「ご飯は?」
「あっ、まだ。」
「何してる?ご飯が一番先だよ。それと、お前が炊くと柔らかすぎるから。水少なくしろ。」
叱っている声が、やっとアラを見つけられて少し嬉しげに聞こえた。それでも気にしないようにして、淡々と答えた。
「はーい。」
おばあちゃんはお菓子と、自分と妹のお茶を盆に乗せて、部屋へ戻っていった。

私は急いでお釜に米を計り入れて研ぎ始めた。

2年くらい前、小学生になった頃のある日の出来事を思い出した。
学校から帰ると、お母さんが居間で泣いていた。まただ。
私はおばあちゃんの部屋へ入るなり、テレビを見ている視線を遮るように正面に座った。
「お母さんを虐めるのはやめてほしいの。お母さんはおばあちゃんの召使いじゃないよ。」
おばあちゃんは、口をへの字に曲げて薄笑いしながら答えた。
「うるさい。生意気なんだよ。嫁ってそんなもんだ。出て行け。」
私も我慢がならなかった。ここで引きたく無かった。
「出ていかない。もうやめると言ってくれるまで。」
そう言うと、苦々しそうに私を睨みつけながら、おばあちゃんは風呂場へ行ってしまった。
その日から、お母さんへのいじめがエスカレートしてしまった。

私は炊飯器のボタンを押した。

お兄ちゃんに面と向かって言ってみたらどうだろう、と考えた。

「もう眠らせないで。来ないで。もう誰のことも眠らせないで。」
とお願いしても、解決しないのかもしれない。

私は鍋に水を汲み火にかけ、そして、本のページをめくり、また板に挟んだ。そのページにはこうあった。

「子曰く、与(とも)に言うべくして之と言わざれば、人を失う。
与に言うべからずして之と言えば、言を失う。
知者は人を失わず、亦言を失わず。」
孔子はおっしゃった。「言わなければならない人に言わなければ、その人を失うことになる。言ってはいけない人に言えば、言葉を失うことになる。知者は人も失わず、言葉も失わない。」

そもそもお兄ちゃんは、言わなければならない人なのか、それとも言ってはいけない人なのか。言わなければならない人になってほしいけど。。。
失うとしたら、失う言葉はどんな言葉だろう。そして失うのは言葉だけだろうか。

鍋に煮干しと味噌を入れてから、まな板に洗った茗荷を並べ、右のものから順に刻んだ。刻んだ具を鍋に入れると、ページをめくった。

「子曰く、巧言令色、鮮なし仁。」
孔子がおっしゃった。「お世辞やうわべだけの愛想は、思いやりに欠ける。」

お兄ちゃんは、どんな人だっただろうと、考え始めた。お世辞やうわべだけの愛想って何だろう。どうしたら見分けられるのかな。

「子曰く、剛毅木訥、仁に近し。」
孔子がおっしゃった。「正しいと思うことを貫いていける強い精神力があれば、少しくらい口下手であっても、仁に近いよ。」

お兄ちゃんは、すごく沢山話すわけでもなかったような気がする。お兄ちゃんは、どんな事を正しいと思う人だったのかな。聞いてみたらよかった。

「子曰く、徳は孤ならず、必ず隣あり。」
孔子がおっしゃった。「徳のある人は孤独にならない。必ず寄り添ってくれる人が現れる。だから大丈夫だ。」

お兄ちゃんの周りにはどんな人がいるのだろう。

お兄ちゃんは、私の隣に誰がいると思っているのだろう。

鍋の茗荷の味噌汁が沸き立ち、蓋をゴトゴトとさせた。

「ただいま。。。おい!鉈や工具が出しっぱなしだぞ!」
玄関の戸が開く音とともに、おじいちゃんの大声が飛んできた。
私は慌ててコンロの火を止めて玄関へ向かうと、
収納の戸棚を開けようとしていたおじいちゃんの手を捕まえた。
「しろちゃんが今ここに赤ちゃん隠してるから、暫く隣の部屋の縁側の端にこの鉈とか鎌とか工具を置きたいの。いい?」
縁側にものを置くのをいつも嫌がるおじいちゃんだったが、仕方なさそうにこくりと頷き、
「どれ。」
と言って収納の戸を少しだけ開けて中をそっと覗き込んだ。
「ほらね。生まれたばかりだね。」
私は心配になってきた。
「4匹もいるのか。」
おじいちゃんはやはり嫌そうに言った。どんどん心配になった。
「やはり森に捨ててしまうの?」

去年白ちゃんに赤ちゃんが生まれた時、その数日後には赤ちゃんがいなくなっていた。おじいちゃんが森に置き去りにしてきたと言っていた。私は次の日にその森の辺りを探しに行ったけれど、箱しか残っていなかった。血痕の付いた箱だった。
その日の夜は、子猫たちの夜がどんなだったのかを想像して眠れなくなった。カラスだったのか、フクロウだったのか、それとも犬とかイタチだったのか、と。
また同じことになるのかと思うと悲しくなった。

そんな曇りきった顔の良子を見て、おじいちゃんがやれやれと言う顔で言った。
「分かったよ。(もらってくれる人を)見つけるから心配すんな。」
「うん。」
私は、白ちゃんたちを他の場所へ隠しておけばよかったという後悔から解放された。
「あ、それからね、ご飯できたよ。」
「ああ。」
そう言うと、おじいちゃんは私の頭をポンポンと2回撫でてから風呂場へ入って行った。

暗く静まり返った廊下に、かすかに子猫の声が聞こえてきた。

今度お兄ちゃんと会った時に聞く事と言う事が、少しずつ分かり始めたような気がした。

台所へ戻ると、本のページをめくった。

「子曰く、辞は達するのみ。」
孔子はおっしゃった。「自分の伝えたい事は簡潔に伝えることが大事で、相手の想像力を奪う言葉の飾りは要らないよ。」

私はお兄ちゃんに、想像してもらいたい事を考え始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?