空 第17話

〈 新たな出発 〉

夜明け前、秀夫は小屋を出た。数日前にも暗闇の中を登ってきた丘を、再び暗闇の中、たまに転びそうになりながら降りて行った。ほんの少しの間だったが、死に場所を探して歩き回ったせいか、妙に土地勘が出来て、登ってきた時のような大変さは無かった。

丘を降りると、田んぼの畦道のような、たまに少しぬかるみのある道を進んだ。この道の先には小さな集落と、の向こうには川幅が数百メートルあるような大きな河があるのだそうだ。その河を渡った先には通りがあり、朝のうちにそこまで行くと良いと吉野は言っていた。特に、醤油や酒などを沢山積んだ車は都会へ行く可能性が高いから、そんな車に声をかけて荷台に乗せてもらえと言っていた。

東の空が赤くなり始めた。20軒ほどの集落の屋根が坂の下に見えてきた。その向こうには、薄らと河が見えるが、向こう岸は靄で見えなかった。

坂道を降りながら、胸元の木彫りを取り出した。吉野が昨晩、眠る前にくれた物だった。一枚は安らかなお顔の仏様と蓮の花、もう一方は力強く走り出しそうな馬。昨晩受け取った時は暗くて見えなかったが、馬の彫り物はこの数日ずっと彫り続けていた物だった。きっとこうなることを、吉野は最初に会った時から、まるで分かっていたようだ。

2枚をまた胸元に仕舞うと、集落の中を足早に進んだ。都会へ向かおうとしていのにも関わらず、やはり人の目が怖かった。カバンの中から手拭いを取り出して、首と片頬を覆った。まだ多くが眠っているのか、人の気配のする家は数件だけで、誰にも会わずに集落を通り抜けた。

河のそばまで来ると、思っていた以上に河幅が広く、海のように思えた。少しずつ明るくなり始め、先ほどよりは視界が開けてきたが、向こう岸はまだ全く見えなかった。

足元にある畔道のような細い道は川縁に沿って伸び、それを遠くまで辿ると、薄ら人影が見えた。足元には大きな荷物が幾つかあり、行商人のようだった。その側には船着場が見えた。秀夫もそこへ向かって歩き始めた。

秀夫は行商人から少し離れた川縁の茂みに屈んで舟を待った。

程なく一艘の舟が来た。2人の客が降りると、行商人は渡賃を扇動に渡して乗り込んだ。秀夫は吉野に言われた通り、仏様の彫り物を船頭に見せた。船頭は、

「こんな物が渡賃になるか。」

と吐き捨てて、秀夫の後から来た男を乗せるとすぐに舟を出し、向こうの河岸へと消えて行った。

次に来た舟にも乗せてはもらえなかった。

吉野は言っていた。少なくとも1人は向こうへ渡してくれる船頭がいると。その人は、木彫りの仏を渡すと、舟に乗せてくれたらしい。しかし、

「下手だな。それに、俺に仏なんて要らねぇ。俺は溺れたりなんてしねぇよ。他の誰かを救ってくれ。」

そう言って、その船頭は木彫りを放り投げたそうだ。

この人に会えたとしても僕は船に乗せもらえるのだろうか、と秀夫は心配になった。


目の前の水面から大きな鯰か鯉のような暗い灰色の魚が急に飛び跳ね、水飛沫を上げた。水の上にできた泡の塊は、少しずつ弾けながらゆっくり流れた。

すっかり小さくなった泡の塊が遠くなって行く側を、また一艘の舟がこちらへ向かってくるのが見えた。

秀夫は、背後に他の待ち人がいないことを確認すると、船頭へ木彫りを見せた。

船頭は、秀夫を上下に目を何度か動かして、調べるように見た。秀夫はたじろいだ。その船頭が一瞬父親に見えた。居た堪れなくなった。そして舟を離れようと秀夫が足を踏み出した時、その船頭は一度ため息をついて、仏の木彫りを受け取り、こう言った。

「先頭に乗れ。手拭いを外すなよ。」


秀夫は舟の上でしばらく待った。夜が明けて、靄がかった中にも、河の向こう岸にある丘の緑が薄らと見え始めた。大きな魚が近くで跳ねるたびに、舟が急に揺れた。水面に大きな魚の口が見えて、手を伸ばしかけたが、裾から大きくなった赤い虫刺されと新しくできた虫刺されが見えて手を戻した。

さらにもう暫く経ち、朝のうちに向こう岸へ辿り着けるか心配になってきた頃、ようやく何人かの客が乗り込み、舟が出た。

向こうの川岸がどんどん鮮明になった。予想よりも早く河を渡れそうだと思った。一安心したところで、秀夫は、吉野の言葉を思い出した。

「初めて彫った物だった。出来が悪いなんて分かってたけど、目の前で放り投げられて悔しくなったよ。」

船頭が木彫りを河へ投げたりしなかった事を、吉野へ伝えたくなった。

「おはよう、だとか、おやすみ、だとかをもう何年も言ってなかった。何気ないことが良いもんだな。忘れそうになっていた事を色々思い出した。」

初めて会った時は、なんて無口な人だろうと思った。でも、本来の吉野は、意外と話すのが好きな人なのかもしれない。

「あの仏壇職人のお爺は口は悪かったし死ぬほど叩かれたりしたが、気にはかけてくれてたんだよな。身寄りのない俺みたいな奴のことを。」

遠く離れてみないと分からない本心があるのかもしれない。

「形見にしてやろうか。」

そう呟いた吉野は少し嬉しそうだった。


吉野の住む丘も、遠く霞んで、靄に沈んでいくように見えた。

「俺が寝ていたら、何も言わずに行きな。」

そう言って、昨晩、吉野はすぐに眠ってしまった。

「ありがとうございました。」

と言った時には、寝息を立てていた。


舟が岸に着くと、他の客は秀夫を跨いで素早く降りて行った。秀夫は慣れない舟の揺れによろけながら、岸に降り、船頭に一礼した。

向きを変えて、小さくなりつつあった先に降りて行った他の客たちの背中を追って歩きかけた時、トプンと音がして振り返ると、船頭が手を合わせて言った。

「マシにはなったけどよ、俺にはやはり仏はいらねぇよ。」


通りに出ると、たまに大きな荷車が往来した。街の方向へ行く車を見つけては声をかけようとしたが、誰も止まってくれなかった。相手にしてはもらえなかった。そこで暫く通りを歩いた。

その道は森の中へ続いて行った。岩場を避けるようにたまに蛇行しながら続くその道をひたすら歩いた。杉の木の多い森だったが、たまに綺麗に紅葉した木を見るとホッとした。かと思えば、時々出くわす岩場は蔦に覆われ、そのいくつかには薄気味悪い洞窟の口が蔦の合間から見えて、その度に秀夫は小走りになった。

太陽が高くなった頃、秀夫はようやく森を抜けた。そして通り沿いの小さな店の前に数台の車や馬車が停まっているのが見えた。

馬車の荷台には米が積まれていた。

その隣の小さな車には、荷物が殆ど積まれていなかった。

奥に停めてある車の荷台には覆いがあった。捲ってみると、大量の醤油と小海老の佃煮だった。秀夫はにを少し寄せて、体をねじ込ませ、荷と自分に覆いをかけた。

一人の男が店から出てきた。覆いの隙間から一瞬見えた男は、大兄と同じくらいの若い青年だった。車は通りへ出た。そして森が遠ざかって行っくのを確認すると、胸を撫で下ろした。

この車はどこまで行くのだろうか。手がかりになりそうなものを探そうとしたが、近くになかった。こういう時は、諦めて寝るに限る。日に当たった覆いで空間が温まり、秀夫はすぐに眠くなった。腹は減っていたから佃煮を一口だけ口にしたが、あまりの塩辛さで喉が渇き、二口目にはならずに、秀夫はそのまま眠り込んだ。

夢に出てきたのは、やはり吉野だった。もっと沢山話したかった。

「俺がまだ寝ていたら、何も言わずに行きな。」

言葉通りになってしまった。もっと感謝を伝えたかった。

「感謝なんて伝えられても何になるんだ」

と吉野は言いそうだが、それでも伝えておくべきだった。小屋を出る時に囁くように言った感謝の言葉では、どうしても伝えられていないような気がしてならなかった。吉野が眠り込む前に戻ることができたならどんな話ができただろう、そんな場面が、何度か行ったり来たりしていた。

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