空 第9話

〈 摘まれる菊 〉

秀夫は夕方まで眠り込んでいた。食べかけていた大根や芋を少し齧り、残りを小さな荷物の中へ仕舞い込んだ。そして、茂みを出て、丘の頂上を目指して登り始めた。
枯れ草で足音を立ててしまうと、そこかしこからざわざわごそごそと物音がする。でも確実に人間ではない。イタチかたぬきか猪だろう。きっとこの丘には、人が住んでいないのかもしれない。そもそも人があまりこない場所なのかもしれない。とても都合がいい。
暗い森の中は進んでいる方角がわからなくなるが、斜面を登る場合は、その点は迷わずに済む。足を滑らせないように足場を一つ一つ手で確認して、一歩一歩登っていった。
月明かりも届かな夜の森の中は真っ暗い。足場は悪くは無さそうなところへ差しかかったが、そんな暗闇の中を進むのも怖くなった。人がいないなら、この森の中は昼間でも動けるだろう、そう思って、手探りで見つけた木の隣に座ってもたれかかった。
腰を下ろしてみると、杉や土の香りや虫の声もより一層感じられた。
荷物から芋のかけらを取り出した。この芋は一昨日他所の家の畑から盗んだものだ。とにかく腹が減って仕方がなかった。あの時はどこかへ向かって歩き続けないといけないと思っていたから、何か食べなくてはと、食い物のことで頭がいっぱいだった。
近所の子と遊んでいる時に腹が減って他所の家の畑から盗って食べた事はあったが、家へ帰って今日あった事を母さんか爺さんに話していると何かの拍子で口を滑らせて、大抵叱られることになった。そして次の日、母さんか婆さんに連れられて、漬物か何かを少し持って、盗った畑の家へお詫びに行くことが多かった。
一昨日の夕方、この芋を盗った時は、持ち主の家の子に見つかってしまった。日が沈みそうになっていたから人が来るなんて思っていなかった。しゃがんで土をかき分けていたら、女の子が二人、カゴを持って走ってきて、すぐ近くの菊の花を大急ぎで摘み始めた。
「紫の(菊)は採らないで。黄色だけにして。そう言われたでしょ。」
「そうだったね。」
などと言いながら、黙々と摘んでいる。
きっとこの子たちの夕飯には、黄色の菊のお浸しか塩漬けか何かが並ぶのだろう。私も家ではよく食べたな、などと思い出していた。するといつの間にか2人が手を止めてこちらをじっと見ていた。
私は抜きかけた2本目の芋は諦めて、丸い芋と小さな大根を抱えて駆け出した。
2人とも、泥棒に怒っているというよりも、得体の知れないものを見て怯えているようだった。2人は大声をあげて誰かを呼びに行くことも、私を追っても来なかった。
私はこの家の人へお詫びをする事はないだろう。
こんな盗みをしてしまった事は初めてだった。

膝の間に当たる息も一瞬で冷たくなった。寒さに耐えかねて目を開けると、もう辺りは白み始めていた。昨日の藪の中はここより大分暖かかった。夜露が降りて服も濡れたように湿っている。ここより暖かそうな所を探すことにした。
闇の中では分からなかったが、ここもとても命に溢れたところだった。落ち葉のフカフカしているところを進んでいたと思っていたが実は綺麗な苔だったり、よく見るとまだ小さな草花も沢山咲いていた。こんなに寒くなってきたのに。
この丘を登った先に待っているのは私の最期なはずなのに、少し愉快な気持ちになってきた。
丘の頂上らしいところへ着いた。この丘は木々に覆われていて、どこが頂上なのか分かりにくかった。辺り一面木々が鬱蒼と茂ってはいるが、先程、私の腰よりも低いくらいの小さな祠を見かけたのと、この辺りよりも高い場所が見当たらないので、この辺りが頂上のようだと判断した。
木もかなり高くまで登らないと見晴らしの良い景色は望めそうに無い。そして、登れそうな高い木を見つけるのも簡単ではないようだ。
歩き回るうちに暖かそうな日の当たる茂みを見つけた。ただ蹲っていたただけだが、昨夜は寒さが体にこたえた。そこでもう一度眠ることにした。

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