非合理な特殊解 19

西田は電車の入り口のドア近くに立ち、暗い壁だけが見える窓の外を眺めた。窓に反射して自分の顔が見えた。先程直した襟を、もう一度引き伸ばした。
別に近藤に言われたから家へ帰るわけでもなかった。そのうち一度帰らないとと思っていた。だから、ちょうど良かった。

西田の姉は西葛西の駅から約20分ほどのアパートの2階に住んでいた。朝と夕方以外は人通りの少ない静かな裏路地から細い私道を入ったところにあり、四方を民家や倉庫に囲まれていた。区画の南側にある大きな倉庫が、その辺一帯をいつも日陰にしていた。

西田は部屋のドアの前に立つと、耳を押し当てて中の様子を探った。複数の人の気配がした。誰か男がいるようだ。
西田は階段を降りて1階にある石段に座り、暫く待つ事にした。
空は青いが、暗い日影の中から見る空は、暗い穴の中から見える小さな外を眺めているような気分になった。
憂鬱な気分を紛らわそうと辺りを見回した。そして、肩からかけた小さな鞄からルーズリーフを取り出し、静かに読み返した。
「この字、変かも。」
西田は携帯を取り出して調べた。
「この字間違ってる。」
西田はニヤリと笑った。
「殺しちゃっても良かったじゃん。僕あの人を殺すつもりだったじゃん。どうしてやめちゃったんだろう。それに、あの人、まだ警察に行ってない。これからも行かなそう。何なんだあの人は。」
そう呟きながら、西田は足元を通り過ぎようとした蟻を踏み潰した。

1時間ほど経ち、2階の姉の部屋のドアが開いた。
「今日は遅れないで来て。じゃ。」
男の声がした。そして背の高い眼鏡をかけた黒いコートを着た男が階段を降り、西田の横を通り過ぎてった。

男が見えなくなると、西田は静かに階段を登り、203の文字の下のインターホンを押した。すると足音が近づき、姉の声がした。
「誰?」
「あの。姉ちゃん。」
西田がそう答えると、ドアの鍵が開いた。いつまで経ってもドアは開かなかった。これまでなら姉のマキが「どうしたの?」と言いながらドアの隙間から顔を見せた。でも今日は無かった。まだこの前の喧嘩を引きずってるのか。
仕方なく西田が自分でドアを開くと、カーテンの閉め切った部屋は、日影の暗さよりさらに一段と暗く、テレビの画面が異様に明るく光った。その画面を遮るようにマキの背中が止まった。
「どうしたの急に。私今持ってないよ。」
マキは椅子に座り、玄関に背を向けてテレビに目を向けたまま言った。
「ち、違うよ。物、物取りに来た。」
西田はしどろもどろで答えた。
「そう。」
マキはテレビから視線を逸らさずにそっけなく答えた。
西田には、姉の相槌が、『嘘つき。』と聞こえた。

西田は玄関横の台所にあった青いグラスに水道の水を汲み、一気に飲み干した。
「変な奴がいて、顔見てきてって言うから。」
「何よそれ。」
マキは弟が何を言っているのか分からなかった。
「僕も分かんない。職場の人なんだけど、姉ちゃんの顔見てこいって。変な人なんだ。」
「そう。」
マキは弟の発言を妙だと感じた。変な奴の言うことを聞き入れている。でも、弟がどこにいて何をしようと、マキには関係無いと思った。3ヶ月前に弟と喧嘩したことを思い出し、マキは急に苛立ってきた。
マキは急に立ち上がると、台所にある冷蔵庫へよろよろと歩き、中から梅酒缶を取り出し、その場で飲み始めた。

西田は姉に謝りたかったが、中々言葉にできなかった。ほんの軽い気持ちで言った小さな文句が、姉を怒らせてしまった。何かを言わなければと思えば思うほど、何も言葉が見つからなかった。

「その人がさ、姉ちゃんの事、すごい人と言ってた。宜しくって。」
「何で?」
「分かんない。」
「てか、あんた何を話したの?」
「親がいなくなった時どうやって生きてたのって聞かれて、僕は姉ちゃんが稼いだとしか言ってないよ。本当。何もそれ以外言ってない。」
「そう。」
マキはポーチからタバコの箱を取り出し、火をつけた。西田は姉の吸うタバコの煙を眺めながら空な眼差しで話した。
「そいつの事殺したくなるくらいイライラするんだ。そいつが来てから調子が狂って。だけど殺せなかった。まあでも、これから分かんないけど。殺すかも。」
「殺すな。迷惑だわ。」
マキはすかさず答えた。

隣の部屋の住人が部屋を出て行く気配がした。
しばらくすると、郵便配達員が、1階にある並んだ郵便受けに端から順々に手紙を入れて行く、パタンパタンという物音がした。
又、近くの民家に住む幼児の泣く声が暫く響いていた。

西田は台所にある椅子に座り、話しかける言葉を探していたが、部屋から出てきた黒いコートの男を思い出し、やっと思いついて言った。
「今どこの店?」
「今は、前にいた吉原の店に戻った。」
「そう。昨日遅刻したの?」
「まぁね。川口が来てて、帰ってくれなかったから。」
「あの爺さん、まだ来てんのか。」
「たまにね。そういう時のあんたでしょう?自宅警備。」
そう言うと、マキは灰皿にタバコの灰を落としてから、弟を見据えた。
「ああ。たまに来るよ。電話番号変わったから、これに必要な時連絡して。」
西田は鞄から未使用のルーズリーフを1枚取り出し、番号を書いて姉の前のテーブルに置いた。
マキはそのルーズリーフを引き出しに仕舞った。

西田はそろそろ帰ろうと思ったが、帰る前に何か忘れているような気がしていた。すると、急に水道管から水が流れる音がした。アパートのどこかの部屋の住人がトイレにでも入ったのだろう。
「あ、そういえば、姉ちゃん、シャワー浴びてもいい?」
「いいけど。」
マキの口調は、以前のように戻った気がした。素っ気なさがほんの少しだけ無くなり、ほんのり暖かくなったような気がした。

風呂場には10種程度のソープ類のボトルが並んでいた。相変わらず、中身を使い切る前に次のを買って来ているようだった。西田は一つ一つのボトルの中身の匂いを嗅いで、使うソープを選んだ。
浴室のドアの向こうに姉が何かを置いたようだ。曇りガラス越しに見えた気がした。
「タオル。」
シャワーの音で殆どがかき消されていたが、マキの声が微かに聞こえた。
「あ、うん。」
西田は、ありがとうが言えなかった。言いそびれてしまった。もうありがとうと言えなくなった。タイミングを完全に逃してしまった。
そんな西田のモヤモヤした思考を止めるように、マキが言った。
「あのさ、あんたの職場のイラつく奴、今度連れてきてよ。」
シャワーの音でかき消され、西田には姉の声がよく聞こえなかった。
「え、何?」
西田はそう言いながら、シャワーを一度止めた。
「だから、今度、あんたの職場のそのイラつく奴、連れてきてよ。」
マキは自分でもなぜこんな事を言っているのかと思った。そのイラつく奴はどんな奴だろう、と思った。弟が殺せないと言っているのだから、体格の良い男を想像した。
「あの人来るかな?来なそうだな。」
西田はまたシャワーを浴び始めた。
「え、あの人?その人って男?」
マキは弟のいつになく柔らかい物言いに驚きながら言った。
「女。」
西田は正直に即答した。すると急にマキが笑い出した。
「なーんだ。つまんない、私は。はははは。」
「どうしたの急に?」
西田がこう呟いている時も、曇りガラスの向こうのマキの笑い声は止まなかった。
「何でもない。はははは。ありがとう。そのイラつく人にそう言っといて。」
「何それ?訳分かんないな。」
西田は意味もわからず伝言を託されたり託したりするのが面倒になった。明日近藤にありがとう、なんて言わないといけないなんて嫌だなと思った。でも、今日の深夜に近藤とやり取りしたルーズリーフの中に誤字を見つけたのを思い出して、西田はニンマリとした。
「ああ、言っとくよ。ありがとうってね。」
先程姉に言えなかったありがとうをさりげなく言えたような気がしたと同時に、以前に吐いてしまった暴言への罪悪の意識がほんの少しだけ軽くなった気がした。



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