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【超短編小説】3年ぶりの帰省

実家に帰るのは実に3年ぶりのことだった。これまでは仕事やプライベートで忙しいことを言い訳にして、帰省することを敬遠していた。しかし、今回の一件があって、僕は一度実家に帰って生活を立て直すことに決めた。

以前から何となく予兆は感じていた。夜眠りにつくとき、僕は睡眠中に自然に息絶えていることを願った。しかし僕はなかなか眠りにつくことさえもできない。ベッドの上で目を閉じれば、上司が私に詰め寄り、怒鳴り散らす声が聞こえてくる。そんなとき僕は目を開き、寝室内の光のない虚空を見つめた。その漆黒の闇に、僕はもともと存在しなかったものとして溶けてしまいたいと思った。そしてまた瞼を閉じ、眠気が来ることを祈る。このループを延々と繰り返す。するといつの間にか、カーテンのわずかな隙間から朝日が差し込んできていることに気づく。また一日が始まろうとしている。僕の一日の始まりは、この絶望感とともに始まるようになっていた。

その日は、チーム内で各担当エリアの売り上げの進捗を報告するミーティングの日だった。足に鉛を埋め込まれたかのような重い足取りで、僕は電車に乗り込んだ。そして電車のドアが閉まった瞬間、僕はとてつもない違和感を感じる。車内の密閉空間という逃げ場のない不安。外界と車内とを仕切る境界が、僕に迫ってくるように感じる。自分では何も制御ができない空間に閉じ込められているという状況に、僕の頭はパニックになる。加えて僕の目に見える光景がぐるぐると回転をはじめ、僕は立っていることができなくなった。いくら息を吸っても苦しい。僕は陸に打ち上げられた魚のように、必死に酸素を取り込もうと必死になる。身体の危険を感じ、胸の鼓動が抑えきれず、僕は思わず胸に手を当てて何とか鼓動を落ち着かせようとした。このままでは死ぬ。僕は直感的にそう思った。車内でしゃがみ込む僕に、周囲にいた人が声をかけてくれたが、その声も次第に聞こえなくなっていった。

目覚めたとき、僕は病院のベッドにいた。僕が起きたことに気づいた看護師さんは、病院に運ばれてくるまでの一部始終を僕に説明してくれた。そうだ、僕は電車で会社に向かうところだったんだ。状況を理解した僕はその後医師の診察を受けた。そこで医師から、回復するまで入院し、しばらくの間会社は休職するように告げられたのだった。

退院後、3年ぶりに訪れた実家は、やはり懐かしかった。実家に帰った日、出迎えてくれた両親は、落ち着くまではいつまででもここにいていいからねと言った。僕はいい大人になって、こんなに両親に心配をかけてしまう自分を恥じ、泣きそうになった。僕は涙を隠すため、すぐさま自分の部屋に閉じこもった。

僕が戻ってくる前までは、この部屋は母親が好きな編み物をしたり読書をする部屋として使用されており、僕が使っていたころとは少し様子が変わっていた。僕の勉強机には、母親が購入したと思われる見慣れない本が並んでいる。そんな中、何となく見覚えのあるぼろぼろで赤色のファイルがあった。気になって僕はそのファイルを手に取ってみる。中を確認すると、これは新卒での就活の際に提出していたエントリーシートをファイリングしていたものだった。

僕の就職活動はなかなか厳しいものだった。当時は就職難の時代で、そこに僕の社会性の低さも相まってなかなか就職先が決まらなかった。結局100社ぐらいはエントリーシートを提出したのではないだろうか。その一枚一枚がこのファイルに保管されている。

私の強みは最後まで諦めずに物事に取り組むことのできる粘り強さです。

私の強みは周りを巻き込む力です。

私の強みはチームメンバーと協力して物事を進めることのできる協調性です。

僕は丁寧に手書きで書かれたエントリーシートを見て、また泣きそうになった。それぞれの会社で求められていると思われる人物像に合わせて、自分の強みをアピールする。10月になっても内定がもらえない僕は必死だった。どうすれば就職できるのだろう。僕は社会に求められる存在なのかと毎日悩んでいた。自分のこれまでしてきたことが認められず、僕は人格を否定されている気分になった。試行錯誤の結果、何とか内定をもらったのが今の会社だった。当時はこんな僕を必要としてくれる会社があるんだという喜びでいっぱいだったことを思い出した。単純に人の役に立ちたい。そう願っていた。

入社して5年がたち、その思いはいつの間にか消え去っていた。いかに売り上げのノルマを達成するために、商品を売り込むか。僕はその一心で仕事を進めていた。たとえそれがお客様をだます結果になってしまっても。5年の歳月で私はどうやら変わってしまったようだった。思わず僕はそっと目を閉じる。あの頃の自分はこんな未来を夢見ていたのだろうか?5年前の自分にとても顔向けできない。暗い考えが頭をもたげるようになると、またあの上司の怒鳴り声が聞こえてくる。

どうやって今月の売り上げを立てるつもりなんだ!

今月も未達か!お前はこの会社のお荷物だな!

お前みたいな無能と働くのは本当に疲れるわ。

眠れないときにそうするように、僕はゆっくり目を開く。僕は実家の自分の部屋にいて、こうして勉強机で古ぼけた赤いファイルを見つめている。上司を信じるか。それとも5年前の自分を信じるか。

まだやり直せる。まだやり直せるんだよ。僕はこうつぶやいて、思わずファイルを持つ手を強く握りしめた。

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