小説 『クリシュナの娘』

 開けっ放しにしたままの部屋のドアを、誰かが遠慮がちにノックする音がした。
「はーい、どうぞ。開いてるよ」
 答えるわたしは、ベッドの上に投げ出したキャリーケースのふたに、両膝をのせかけているところだった。オリテの前に歯ブラシだけでも出しておこうと、中途半端に荷物をあさったのが間違いだった。六日分の下着、着替え、化粧品、学参、教科書、その他もろもろでぱんぱんに膨れあがったキャリーケースは、いちどひらいた口をなかなか閉じようとしない。
 三分の一あたりまで進んで動かなくなったジッパーを恨めしげに見下ろしながら、わたしはあきらめの吐息をついた。いったん荷物をぜんぶ出して、詰め直したほうが早いだろうか?……そんなことを考えていたとき、もういちどノックの音が響いた。
 戸口に立った小柄な少女が、振り返ったわたしを静かに見つめていた。
 両手に抱えたボストンバッグがやたらと重そうに見えるのは、その手や足が、いかにも華奢そうに見えたからかもしれない。
「おう、掛川さん」
 どこか遠くを見つめているような瞳をした少女に、わたしは声をかける。
「あんたが相部屋の相手? わたしと一緒だといろいろ騒がしいだろうけど、まぁ我慢してよ」
 掛川さんは、ぺこりと頭を下げた。男の子のように無造作に切りそろえた襟足がのぞいた。そのままスリッパの音をすたすたと響かせながら近づいてくると、彼女は空いていた片方のベッドの上に、ボストンバッグを降ろした。
「あ、ごめん。ベッドかってに決めちゃって。窓際のほうが良かったら、代わってもいいよ」
「べつに、どっちでも」
 静かな声が響く。小声、というわけじゃない。ただ、人が多くいる場所では簡単に他の声にまぎれてしまいそうな声だ、そう思った。
「この部屋には、寝に帰るだけでしょうし」
 ――観光旅行に来たんじゃねェぞ。
 掛川さんのことばを裏打ちするように、どこかの部屋からヌレゾーキンの声が聞こえてくる。
 ――説明会が終わったら、すぐに選択授業一コマ目始めるからなぁ!
「世知辛いねェ」
 わたしは笑いながら、亀の甲羅のようにふくらんだキャリーバッグのふたを、ぱんぱんと叩いて見せる。
「高二の夏から、そんなにピリピリしなくてもいいと思うけど」
「みんな、諏訪野さんみたいに優秀な人ばかりじゃないから」
「あなただって充分、成績優秀じゃないの。こないだの物理、学年トップだったでしょ?」
 云われた掛川さんは真顔のままだった。真っ向からわたしの顔を見返したまま、なにも答えない。
 伝われ、軽口だ。
 伝われ。
 ……伝わらないか。
 わたしの期待もむなしく、掛川さんの口元はぴくりともゆるまない。
 わたしと向かい合うような形でベッドに腰かけると、掛川さんは制服のポケットから携帯電話を取り出した。
「ああ、ダメだと思うよ、たぶん……この山の中じゃ」
 携帯の画面をのぞきこんでいる掛川さんにむかって、わたしは云った。ほんの数分前に、わたしも自分の携帯電話で試してみたところだった。どんなに振り回したところで、アンテナの一本も立たない。『着メロ聴くくらいの役にしか立たない』という生徒会の先輩たちの忠告は、正しかったらしい。
「……そうみたいね」
 画面に見入ったまま、掛川さんが答える。
「一週間、完全隔離だよ。若い身空でさ。泣けてくるよ」
 高台に建ったこの合宿所の窓からは、眼下にひろがる鬱蒼とした森しか見えない。ホームタウンとわたしたちをつないでいるのはいまや、頼りない県道が一本だけ。しかもわたしたちを降ろしたばかりの貸し切りバスが、たったいま森のむこうに姿を消したところだ。
 わたしの通う学校は、一応、県ではトップクラスの女子進学校、ということになっている。名の通った私立高なんてひとつもない田舎のことだ、トップクラスといってもたかがしれているのだが。東大京大クラスで、年に合格者が数人。私立大にひっかかる人間をあわせても片付くのは三分の二くらい。卒業後に地元でくすぶってしまうOGも多くて、地元では“ヨメ生産工場”などとひどい陰口を叩かれている。
 どうせそんな目線で見られているのなら、こんな山奥の合宿所などではなく、海の見える沖縄のリゾートホテルあたりに連れて行ってもらいたいものだ。そうすれば肌を小麦色に染めた若い衆相手に、OGたちがコツコツとつみあげてきた“信用”なんてぶち壊すくらいの浮き名を流してやろうものを。
 流せるかな……まぁ、云うだけはタダだ。
 こんな山奥では、浮き名を流そうにもカブトムシくらいしか相手はいない。
 まだ夕方にもなっていないのに、窓のむこうははやくも夕方の空気感をただよわせていた。山の夜は早いと云うけれど、本当だろうか? 夜になったら、外は本当に真っ暗闇で、隔離されたような気分は強まるだろうな、とわたしは思った。
 ぱたん、と勢いよく携帯を閉じると、掛川さんはまた黙り込んだ。わたしはひそかに、胸の中で気合いを入れる。
「掛川さん、虫とかニガテ? ここ、多いよ、きっと」
「べつに」
「誰に電話したかったの? 彼氏?」
「べつにいいの。つながらなかったら、わたしのせいじゃない」
「バスの中で出た弁当さぁ、最悪だったと思わない? 晩飯くらい、少しはましなもの喰わせて欲しーよ」
 掛川さんの顔に、はじめて微笑、らしきものが浮かんだ。
「……諏訪野さんって、余裕あるんだね」
 どきりとした。
「えー、そう? 普通じゃない?」
「人生楽しんでるみたいで、いいな、って」
 涼しい顔でそう云うと、掛川さんはボストンバッグのジッパーを開き、荷物を整理し始めた。
 これはなかなかの難物だ。
 これからつづく一週間を思いながら、わたしは胸の中でそっと吐息をつく。
 

 
 一コマ目選択、二コマ目センター英語、三コマ目センター国語、ときて、日もとっぷりと暮れたところで、わたしはヌレゾーキンに呼び出しをくらった。
「とにかく集中力が足りねェんだ、なにをやるにしろ。どいつもこいつも上の空だろ。何年もここの教員やってるがなァ、今年はひどい。みんな、なんか別のモンに気ィとられてんじゃねェのか」
「さぁ、わかりかねますが」
 答えるわたしは風呂上がりで、まだ濡れたタオルを首のまわりにぶら下げていた。
「そもそも、先生の愚痴をなぜわたしが聞かなきゃならんのか、わかりかねます。クラス委員は里佳子でしょう? 他のクラスの子だっていますし」
「おまえのほうが、説教しやすいんだ、副会長」
「わかりやすい御回答、痛み入ります」
「とにかくな、うわついてる連中に気合い入れてやってくれや。一発、ビシーッとな」
 ようやく解放されたわたしは、すきっ腹をかかえて、食堂へとむかった。甲高い笑い声や、雑然とした話し声が、廊下にまで響いてくる。
 ヌレゾーキンのことばは、わたしには杞憂に思えた。いつもと変わらぬ喧噪だ。過剰にはしゃいでいるわけでも(そもそもはしゃぐ要素なぞないが)、過剰にピリピリして抑鬱的になっているわけでもない。いつもの、ぬるいおねーさん方の集団だ。
 味もそっけもない蛍光灯の明かりが、こうこうと輝いて食堂を照らしだしている。
 一カ所だけ、切れかけの蛍光灯が、明滅を繰り返している場所がある。
 掛川さんが、その真下にいた。
 十人はかけられる長いテーブルに、たったひとりで座り、黙々とお膳にむきあっている。
 他の連中は掛川さんとはたっぷりと距離を置いたテーブルに、ひしめきあうように群れて、じゃれあっていた。
 わたしは里佳子の席に近づくと、テーブルの下でその足を踏んづけてやった。
「あれは、ねーんじゃねぇの?」
「誘うヒマが、なかったんだよぉ」
 ばつの悪い表情をして、クラス委員長はそう云った。
「声をかける前にすたすた歩いて行っちゃってさ。あとから声をかけようにも……わかるでしょ、あの背中」
 こちらにむけた掛川さんの背中は、こころなしかこわばって見えた。全力で他人を拒んでいるように見える、その背中……。
 わたしはため息をつくと、自分のお膳をかかえて、その席に歩み寄った。
 となりに座ると、掛川さんは少し驚いたように振り返った。
 わたしはお膳にむかって両手をあわせ、箸をとってから、そこで初めて気がついたというように、はっと掛川さんのほうを振り向いて見せた。
「おう、掛川さんじゃん。奇遇だねぇ」
 掛川さんは、もういつものポーカーフェイスに戻っていた。右手に箸をにぎりしめたまま、じっとわたしを見つめている。わたしは気にせず、箸の先で皿に載った焼き魚をつついてみせた。
「こんな山の中に来て、魚が食べられるなんて思ってなかったなぁ。この魚、なんだろ。わたし、そういうの、ぜんぜん詳しくなくてさ」
 掛川さんは、答えない。クラスの他の連中は、こちらのことなど気にもとめない様子で、昨日の夜のテレビの話題で盛り上がっている。
「でも、よかったよ、まともなモンが出てさぁ。生徒会長にいろいろ、脅かされてたから。去年は副菜に、熊肉の肉団子が出たんだって。地元の猟友会の人たちが母親熊をしとめて、こっちにわけてくれたらしくってさ。みんな豚肉かなんかだと思って、気にせずパクついたらしいけどねぇ。そんなの、あとで聞かされたくないよね」
「岩魚」
 わたしと目を合わさないまま、ぽつりと、掛川さんが答えた。思ったとおりだ、とわたしは思った。人がおおぜいいるところでは、この人の声は通らない。すぐにも、かき消されそうになる。
「へぇ、そうなんだ。くわしいんだね」
「わたし、ちいさいころ、田舎ばっかり住んでたから。こんなふうな山奥に住むことも多かった。出される川魚って、そんなに種類、ないから」
「よく知らないけど、高いんでしょ。よく合宿所の夜食なんかでそんなもの出すよね」
「ものによるかも……わたしも、詳しくはないけど」
 掛川さんが、ふいに箸を置いて、顔を上げた。
「ありがとう」
 あまりに唐突すぎて、うかつにも笑いそうになった。
「どうしたの、急に」
「“奇遇”なんかじゃないんでしょう? 部屋がいっしょなのも、講習のあいだ、ずっと席が隣なのも……誰も、わたしと同室になんか、なりたがらなかったんでしょう?」
「そりゃ考えすぎだよ」
 云いながら、声がうわずりそうになる。わたし、この、三文役者め。
「気をつかってくれる必要なんか、なかったのに。慣れてるから……でも、人にやさしくされるのは、あんまり慣れてないから」
 早口で一気にそう云うと、掛川さんはお膳をかかえて、立ち上がった。
 わたしは後を追わなかった。追えば、まわりがかえって変に思うし、気も遣わせる。パイプ椅子の上でぐったりとつぶれたまま、まるですべての責任はこいつにあると云わんばかりに、箸の先で岩魚の腹をつついてみせる。
(どうしよう……)
 手品の種はばれてしまった。べつにヌレゾーキンや誰かに云われて決めたわけじゃない。来る前から、自分で決めたことだった。掛川さんが孤立していたら、そばにいようと。
 性分だ。自分で決めたことは絶対に変えたくない。折れたくもない。でも、わたしのうわついた明るさで、どこまで掛川さんに迫れるんだろう? 下手をすると、一週間、わたしの独演会で終わってしまうってこともあるんじゃなかろうか?
「真澄、ごめんよォ……」
 泣きそうな顔で近づいてくる里佳子に鷹揚にうなずきながら、わたしは頭の中でひとつのことばだけを繰り返していた。
 どうしよう?


 ノートの取り方ひとつとっても、性格が出る。
 隣の席にいる掛川さんを見つめながら、わたしはそんなことを思っていた。
 小さなからだを、さらに丸めるようにして、掛川さんはペンを持った右手を熱心に動かしている。ノートの上には、古文の屋田が黒板に書き散らした文章が、丁寧にそのままうつしとられていた。
 無意識なのか、ノートを支える左手に、ときおりぐっとちからが入る。華奢な細い指を見ていると、そのうち何かの拍子に折れてしまいやしないかと心配になるほどだ。講堂には弱冷房しか効いていなくて、親指のつけねのあたりに、わずかに汗が滲んでいた。
「諏訪野さん」
 顔も上げずに、掛川さんが小声でささやいた。
「おう?」
「そんな風に、じっと見ていられるの、わたし、好きじゃない」
「これは、失敬」
 わたしはつぶやいて、視線を前にそらす。屋田はいつものように、ぶつぶつと口の中だけでなにかをつぶやきながら、凄いいきおいで白墨を黒板の上にすべらせている。
「慣れていないわけじゃ、ないんだけど」
 掛川さんが、ぽつりとつけ足した。
 何が? 何が、慣れていないわけじゃない、んだろう?
 ああ……じっと見つめられることが、か。
 それはそうかもしれない。名ばかりとはいえ進学校への編入生。それも二年の五月なんていう中途半端な時期にやってきて、編入試験で満点を取った、なんてうわさが流れれば、どんな完璧超人かと尊顔のひとつも拝みたくもなるというものだ。
 掛川さんについては、もうひとつのうわさも流れていた。からだが弱くて、心臓に爆弾を抱えているといううわさだ。そして現れたのが、イメージとたがわぬ華奢で弱そうな少女で、体育の授業は全部欠席、となれば、気づかう視線のひとつやふたつ、あったとしても不思議ではない。
 そのすべてが、物見高い、無責任な視線だったとは、わたしは思わない。掛川さんを心配して、手助けしようと本気で思った子だっていたはずだ。だけれど掛川さんのかたくなな態度に、ひとり、またひとりと彼女のまわりから人は離れていった。
 いまでは、彼女はクラスでも孤立してしまっている。正直、この夏期合宿に参加すると聞いたときは、驚いたものだ。彼女の性格からして、なんらかの理由をつけて欠席するものと思っていた。
 実際、この合宿に欠席しているクラスメイトだって、それなりの数はいる。琴子は北海道の親戚の家に遊びにいっているし、こんなぬるい合宿に参加するよりはマシだと、早アカや代ゼミの夏期セミナーに参加を決めたクラスメイトたちもいる。
「手、止まったままだね」
 あいかわらずノートに視線をむけたまま、掛川さんがそう云った。
「ああ、まぁね」
「余裕、なんだね、やっぱり」
「ちがうよ。抵抗」
 わたしはそうささやいて、開きっぱなしの教科書の上に、シャープペンシルを投げ捨てる。頭のうしろで両手を組んで、ぐっと伸びをした。
「屋田の授業、きらいなんだ。生徒を無視して、勝手に授業進めて、質疑応答の時間も取らない、なんてさ。それだったら独り言と変わらないじゃない。部屋で自習してるほうがマシだよ」
 横目で掛川さんをうかがうと、彼女はノートをとる手を休めて、こちらを見つめていた。
「……掛川さんをバカにしてるわけじゃないよ」
 なけなしのフォローは宙に浮いた。沈黙。ありゃ、まずったかな、などと内心思っていると、長い間をおいて、掛川さんはぽつりとつぶやいた。
「わたしには無い考え方だなって、思った」
 それだけ云うと、掛川さんはふたたびノートを取り始めた。
 えっ、それで終わり?
 自分についてとか、自分の考えとか、話してみたくならない? こっちとはちがう“わたし”の考え方について、とうとうとさ……いくら授業中だっていっても、ねぇ?
 掛川さんは黙り込んだまま。講堂のなかには屋田の念仏のようなつぶやきが響く。しかたなく、わたしは、自分から手の内をさらす羽目になる。
「身勝手で、自己完結してる男って、大嫌いなんだ。うちの父親がそんな具合だからね。屋田とは、性格も、見た目も違うけどさ。封建的で、わたしの云うことなんてそよ風くらいにしか受け止めてくれない。そういう男を見ると、がぜん対抗心燃やしちゃうのね、なんか、わたし」
 それでもその軽蔑している父の稼ぎにぶら下がって生きているという事実が、わたしを傷つける。自分なんか、ただ向かい風にむかって吼えているだけの口先番長なんではないかという憂慮が、わたしを黙らせる。
 話題を、変えよう。
「掛川さんは、なんでそんなに勉強熱心なの? 将来の夢とか、あるの?」
 口に出したあとで、血の気が引いた。
 あ。
 しまった。
 一気にからだがこわばり、わたしの視点は教科書の一行にしばりつけられたまま、頭を動かして掛川さんの顔色をうかがうことすらできなかった。
 なんて不首尾な。不首尾? ちがう。きっとわたしも、掛川さんを遠巻きに見ているクラスメイトたちと、そうは変わらないのだ。心の奥では、きっと他人事だと思っている。物珍しく遠くから彼女を見つめているだけで、自分も血だらけになりながら、彼女の懐に飛びこんでいく度胸すらない。
「……そうだね、なんでもいいから、お給料をもらえる身分になりたいな。はやく、お母さんを楽させてあげたい」
 掛川さんの答えには、よどみがなかった。わたしの問いかけに、傷ついた様子でもない。
「そう。いいね」
 ほっとして答えながらも、わたしは内心自分にむかって罵声を浴びせることを止めなかった。馬鹿。お調子者。
 掛川さんはノートを取る手を休めない。
 ねぇ、いま、なにを考えてる?
 あなたのこころの、入り口くらいには、わたしは立ててる?
 いくつもの問いかけが、頭に浮かんでは、そのまま口から出ることなく消えていく。わたしは両腕を組んだまま、意地になったようにノートは取らず、ただ黒板をじっと見つめていた。


 微妙な雰囲気の変化に気づいたのは、次の日の午後あたりからだった。
 目には見えないぴりぴりした空気が、わたしと掛川さんを取り囲んでいた。誰も何も云わないが、強ばった学友たちの背中を見ていれば、何かあったことくらいは容易に察しがつく。
 案の定、夕食後の自由時間になるとすぐ、里佳子が小走りに駆けてきて、わたしの耳元でささやいた。
「ちょっと、来て」
 そのままわたしの手を引いて、ぐいぐいと歩き出す。里佳子の手が離れたのは、調理場の前だった。
 賄い夫さんたちの姿はすでにない。代わりに、数人のクラスメイトたちが、輪をつくってわたしたちを待っていた。皆一様に、不安そうな表情をしている。
「由美がたまたま見つけたの……たぶん、最終日の打ち上げ用に、ヌレゾーキンたちが買ってきて、ここに隠してたんだと思うんだけど」
 里佳子がそう云って、調理場のかたわらを指さす。
 そこに、大きな紙袋が置いてあった。わたしは近づいて、中をのぞきこむ。
 鮮やかな原色の包装が、目を打った。
 浴衣をきて微笑んでいる、幼い少女のイラストが表についている。
 花火だった。線香花火からはじまって、いろんな種類の花火が、こんもりと山になるほど袋の中につまっている。
「なにか様子がおかしいとは思ってたけど……」
 声が冷たく尖るのを、堪えきれなかった。
「バカじゃないの、あんたたち」
 わたしは云いながら、とりかこんだクラスメイトたちの顔を、ひとつづつ睨みつける。
「こんなこと、どうってことないじゃないの」
「これを見ても、それが云える?」
 里佳子がそう云って、かたわらに置いてあった大きな包みを取り上げる。
 『超弾頭』『大型ロケット花火』『大迫力! 大火力!』――威勢のいい文字が表にならんでいる。
「あんたらねぇ、こんなもんで掛川さんがどうにかなるようだったら、十六年も生きてきたあいだになんどもそうなってるっての。冷静に考えれば、それくらいわかるでしょう?」
 返事は、なかった。
 場を取り囲む不安の空気は、払拭されるどころかますます濃くなっている。誰かがぽつりとつぶやいた。
「わたし、帰ろうかな」
「バカ云ってるんじゃないの。掛川さんはねぇ……」
 云いかけたわたしの腕を、里佳子がぎゅっとつかむ。
 顔を蒼白にした里佳子は、目を見開かんばかりにして、わたしの背後を凝視している。
 カウンターをはさんだ食堂には、まだ明かりがついていた。
 そこに、掛川さんが立っている。
 わたしと目が合うと、ぺこりと頭を下げた。そのままくるりと背をむけると、スリッパの音をすたすたと響かせながら、遠ざかっていく。
「掛川さんっ!」
 云いながら、わたしは後を追った。追って、追いついて、なにを話す? みんな悪い子じゃないんだよって。無知で、こわがりなだけで、悪い子なんて一人もいないんだよって。そんな見え見えのフォローをしてどうする。耳は傾けてくれるだろう。でも素直にこころまで響かせてくれる相手だろうか?
 部屋には、明かりがついていなかった。
 窓の外には街灯ひとつない、本物の闇が広がっている。掛川さんは硬い影になって、ベッドに腰かけている。
「大丈夫」
 わたしが空疎なことばを投げかけるまえに、掛川さんが先手を打った。
「慣れてるから、こういうの。ぜんぜん、大丈夫だよ」
 大丈夫なわけがない。わたしがおなじ立場だったら、腫れ物に触るようなあんな態度を、きっと侮辱だと受けとるだろう。でもそもそも、わたしと掛川さんはおなじじゃない。
 云いたいことばをぜんぶ飲み込んだあとで、わたしは口をひらいた。
「わたしの、名前さ」
 云うはずもなかったことばが出た。
「諏訪野 真澄っていう名前さ、男と女、どっちでも使える、リバーシブルな名前じゃない? 本当はうちの父、男が欲しかったんだよ。うちの母親、からだ弱くて一人しか子ども産めなかったから、なおさらさ。だから長男につけるはずだった名前を、女に生まれてきたわたしに、そのままつけたの。意地になってたんだろーね。物心ついたころから、何度も、何度も、聞かされたよ。お前が男だったらよかったのにって。そんなこと云われてもねぇ。どうしようもないじゃない、本人には」
 聞いているのか、いないのか、掛川さんの影は、ぴくりとも動かない。
「でも、悔しくてさ。生きてるあいだずっと、目には見えない、もうひとりの“マスミ”と比べられてるような気がしてた。そばに離れずにいるその影に、負けたくなくてさ。だからずっと頑張ってた。頑張るしかないじゃない? ちっちゃいころは家に帰りたくなくて、近所の公園で日が暮れるまで時間つぶしてたよ。でも、子どもは家に帰るよりしょうがないからさ。だからわたし、怖がるかわりに戦うことにしたんだ。影の“マスミ”ちゃんに負けないように、ずっとさ。でも、お笑いだよね。いきつく先は女子校の生徒会副会長だもん。わたしのウツワなんて、まだそんなもんなんだよ」
「だから……」
 闇のむこうから、静かな声が響いてきた。
「だから、わたしを見捨てたくなかったの?」
「そうかもね」
 余計なことだとは思いつつ、一言つけくわえずにはいられなかった。
「……ごめん」
「どうして諏訪野さんが、謝るの?」
 ひっそりとした声で、掛川さんは笑った。いやな感じの笑い声では、なかった。
「わたしの、胸の中にある爆弾はね」
 さらりと、そう云った。そのことばこそが、ふいに手渡された爆弾に思えて、わたしはびくりと肩を震わせた。明かりをつけていなくて、よかった。
「わたしの心臓のなかにある爆弾は、セバシン酸ジオクチルと、ポリイソブチレンと、ジオクチルアジピン酸塩の混合品でね、外部からの圧力や振動で爆発することはほとんどないの。動脈の一部が金属質に硬化して、ダイアフラムと接点を形作っていて、脈拍の瞬間最大数が一定以上に上がると、点火する仕組みになってる。すべてがわたしの血と肉からつくられた、天然の爆弾。だからわたしが過度に興奮したり、激しい運動をしたりしなければ、大丈夫だよ」
 まるでなにかの取扱説明書を読むような、覚めた口調だった。
 どんな人生を送れば、十六歳にして、自分の体を襲った悲劇を、こんなふうに淡々と語れるようになるんだろう?
「お医者様が云うには、ひとが生まれながらにして天然の高性能炸薬(ハイエクスプローシヴ)を胸にかかえたまま生まれてくる確率は、数千兆文の一の確率なんですって。だから、わたしはたぶん死ぬまで、自分の同類に会わずに終わるの……会いたくなんて、ないんだけれどね。うんと小さいころは意味がわからずによく泣いていたけれど、そのたびに母が必死になってわたしをあやしてたわ。母はいつだってわたしより多く泣いて、そのたびにわたしの涙は自然と涸れてた。ずっと小さいころから、わかってたのよ。わたしは、泣いたり、笑ったりしちゃ、いけない人間なんだって……電話の、相手ね」
「え?」
「最初の日に、携帯で電話を掛けようとしてたでしょう?」
「ああ、うん」
「相手は、県警警備部の機動隊の人なの。爆弾処理のプロフェッショナルで、子どものころからずっとお世話になっててね。こんどの合宿は県境を越えるから、毎日連絡を欠かさずにいようって思ってたの。笹貫さんっていう、柔道の達人で、いい歳をしたおじさまなんだけれどね、その人が出かける前にわたしに云ったの。清美ちゃんが、十六歳の夏を楽しくすごして、泣いて、笑って、それで爆弾が爆発したんなら、おれはなにも云えないなぁ、って……でも、うちには弟も、妹もいるし。お母さんもね。迷惑なんか、かけられないよ」
「手術はできないの?」
「できるなら、とっくにしてるよ……人気のない田舎から田舎へ、わたしたち家族が渡りあるくこともなかった」
「わたしにっ」
 勢いのあまり、舌を噛みそうになった。
「わたしに何か、できることはないの?」
 闇のむこうからかえってきたのは、やさしい含み笑い。
「……ありがとう、そのことばだけで、十分だよ。諏訪野さん、わたしね」
「はい」
「この合宿に来て、良かった」
 ベッドの上に、掛川さんが横たわる気配がした。
「オッペンハイマーって、知ってる?」
 掛川さんが、訊ねてきた。
「知らない……学校で、習った?」
「たぶん、授業だと出てこないかな。マンハッタン計画を率いて、広島と長崎に落ちた原爆を、つくりだした人。原爆が落ちて、たくさんの人が死んだあとで、その人はヒンズー教の教典『バガヴァッド ギーター』から破壊と武の神、クリシュナ神がつぶやいたことばを引いて、自分のことをこう評したの。“我こそ死なり 我こそ世界の破壊者なり”ってね。わたしもたぶん、そんなものなんだと思う」
 もう、ことばには意味がなかった。
 それ以上、掛川さんがしゃべりつづける前に、わたしは黙って掛川さんのベッドに歩み寄った。右膝をベッドに乗せたとき、掛川さんが鋭く息を吸い込む気配がした。闇の中に手をのばす。かたく、つめたいかたまりに、指先が触れた。掛川さんのくるぶしだ。
「やめて……」
 ちいさく、尖った、掛川さんの声。
「半径二十メートル以内にいる人は、ぜんぶ、おねがい、やめて!」
 わたしはかまわず闇の中に手をのばし、掛川さんのからだを抱きしめた。
 震える、華奢な、そのからだを。
 わたしに寄り添った“マスミ”の影に、わたしは生まれてはじめて本気で願った。
 あんたがいま、そこにいるんなら、あんたもこの子を抱きしめな。
 古代インドの神みたいに、一面四臂のあやかしになって、この子を抱きしめるんだ。
 この子の孤独を抱き留めるには、わたしの両腕だけじゃとうてい足りない。
 男でも、女でも、関係ない。この子を救うには、きっと生きた人間の腕が必要なんだ。
 いまここにいるのは、わたしだけ。だから。
 華奢なからだを、両腕で胸に抱き留める。掛川さんの鼓動がつたわってくる。それは無粋な時限爆弾の長針が刻む音のように聞こえた。かち、かち、かち……。
 掛川さんは、わたしの腕の中で、ずっと震えていた。
「こんな小さなからだで、ずっと我慢して……」
 悔しさに、声がふるえた。
「叫びたければ、叫べばいいのに」
 掛川さんは、なにも云わない。
 爆発は起こらない。
 ただいちどだけ、ちいさく、鼻をすする音が響いた。

 しゃこ、しゃこ、しゃこ、しゃこ……。
 規則的につづく物音で、目が覚めた。
 ベッドに横たわったまま、斜めにかたむいた視界のなかに、体操服にジャージという姿の掛川さんが、歯を磨いている姿がうつる。
 わたしが起きたことに、まだ気づいていない。
 掛川さんは、またいつもの仏頂面に戻っていた。窓の外の森を見つめながら、ただ規則正しく右手を動かしている。
 なにを考えているのか、なにを感じているのか、その姿からはうかがい知れなかった。それでも、昨日まで感じていた焦りや空転感が、胸の中からきれいに消え去っていることに、わたしは気づいていた。
「わたし……」
 嗄れた喉から声を絞り出すと、歯ブラシを動かす音は、ぴたりと止んだ。
「わたし、やっぱり、あなたと友達になりたい」
 かえってきたのは沈黙だけ。
 やがてまた歯ブラシを動かす、規則的な音が聞こえ始めた。
 わたしはおそるおそる、掛川さんの表情を伺う。
 掛川さんは目尻を下げて、照れたように微笑んでいた。
 ベッドから起き上がると、わたしはキャリーバッグから自分の歯ブラシを取り出した。
「今日もいい天気になりそうだね」
 歯ブラシを含んだまま、こもった声でわたしはそう云った。掛川さんは答えない。
「あと二日かぁ、きょうあたりがいちばんしんどいね」
「……」
「屋田の授業、あと二コマもあるよ。やんなる」
「……」
「夏休みの残り、どうするか決めてる? 旺文社の模試が終わったあとで、二週間くらいあるでしょう? どこか、行かない?」
「……」
「掛川さんさ、やっぱ、恋だよ、恋」
 わたしは口から出した歯ブラシを、ぎゅっと右手で握りしめ、力説してみせた。
「恋をしよう。世界なんて、そんなことで壊れないよ。そんなことで壊れる世界だったら、もともとたいしたことなんてなかったんだよ」
「……」
「掛川さん、好きな人とか、いないの?」
「……」
「ちょっと、気に掛かってるだけとかでもいいよ。そんな人、いないの?」
「……いる」
「おー」
 大仰に驚いて見せるわたしに、掛川さんはほんのちょっとだけ、微笑んで見せた。

(了)

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