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多動祝祭日

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
ある友へ
アーネスト・ヘミングウェイ

『移動祝祭日』アーネスト・ヘミングウェイ

 これは彼の遺作「移動祝祭日」の序文だ。この作品は「誰がために鐘は鳴る」や「武器よさらば」、「老人と海」のように有名ではない。しかし、パリでの暮らしを綴った素朴な作風で、読んでいてパリに行きたくなる。
カフェで文章を書く、友人とビールを飲む、レストランでワインや牡蠣を堪能する、フィッツジェラルドやミス・スタインと議論をする…。

パリに住んでいた当時、彼の知名度は未だ高くなかった。それゆえ裕福ではなく、従って暮らしぶりもそこまで豊かではない。食費を抑えるため、空腹感を誘う飲食店の並ぶ通りを避け、公園で過ごすシーンもある。それでも、文章の随所にささやかな幸福が感じられる。ヘミングウェイはパリで過ごした若き日の暮らしを回想して、晩年にこの作品を書き上げたという。

当初はタイトルの移動祝祭日という単語に聞き覚えがなく、ヘミングウェイの造語かと思っていた。調べてみると、移動祝祭日とは元を辿ればキリスト教会暦の言葉で、復活祭の日付によって移動する祝日のことを指しているようだ。今はもっと広い意味で、日本でいえば春分の日、秋分の日のように復活祭とは関わりがないものに対してもこの言葉が使われている。
元の意味では移動するのは日付だ。ヘミングウェイはこの単語を、その都市での饗宴が自己に伴うものとして使っている。

私の大学時代には、試験や実習期間を除けば毎週移動祝祭日があった。大半期に通常の授業は15回あり、5回までなら欠席しても単位が出ることになっていた。座学は1週間で1日授業を休んでも、曜日をずらせばそれぞれ3回ずつの欠席にしかならない。曜日が移動する、自分が勝手に決めた祝祭日というわけだ。これを考えた時は自分のことを天才だと確信した。あまり褒められたことではないし、誰も賛同してくれなかったが…。

移動祝祭日はゆっくり起きて外でブランチをとる。カフェでクロックムッシュとカフェラテにする日もあれば、サンドイッチ屋でレタスサンドとコーヒーにする日もあった。金銭的に余裕がない日は学食のカレーだ。
昼間は書店や映画館をうろつく。上野に気になる展示があれば美術館や博物館にも行く。展示を見る時は話し相手もいないので、音声ガイドを借りてじっくり見る。気に入ったものがあれば絵葉書を買って知人に送る。
夕方になると軽食を済ませ、30分前にはアルバイト先へ到着する。一仕事を終え、時間と金銭に余裕があればバーで飲む。常連仲間と下らない話をする。ほろ酔いでいい気分になった頃帰り、ゆっくりと眠る。
大学で授業を受けた方が有意義だったかもしれない。しかし、本や映画や、美術館は単なるエンターテインメントではなく、新たな知見を与えてくれた。あらゆる創作には意図があり背景がある。意図には創作者の哲学を、背景には当時の歴史を見ることができる。そこで私は、教科書で見逃してしまった世界を見つけることができた。
アルバイトやバーでは、そこでなければ絶対に接点を持てなかったであろう人々と関わることができた。私の移動祝祭日は直接の資格や職業には繋がらないが、人間的な土壌を造ってくれた。

教養という単語を大辞林で引くと、①教えそだてること、②社会人として必要な広い文化的知識に加えて下記のような意味がある。

③単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。

移動祝祭日が私にもたらしたものは、まさにこの三番目の意味での教養だったのかもしれない。
社会人になってからはかつての移動祝祭日のような、ゆとりと充実感のある一日はほとんど失われてしまった。しかし、かつて過ごした移動祝祭日は、今も私についてくる。そこはパリではなく、フィッツジェラルドもミス・スタインもそこにはいなかったけれど。

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