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「無職本」から自分の仕事について考える

幼い頃、開業医の祖父に連れられてよくホテルのバイキングへ行った。ホテルのスタッフは祖父のことをよく知っており「先生」と呼んでいた。祖父が私のことを「うちの孫だ」とスタッフに伝えると、私はたちまち「先生のお孫さん」になった。勝手に自分が偉くなったような気がして嬉しくなったことを未だに覚えている。
大学卒業後、私はすぐに大手のドラッグストアに就職した。社宅の引き渡しで不動産へ向かうと、大した確認もなしに鍵を手渡された。大手企業の一社員ということは、それだけで大きな信用を得られる。クレジットカードやローンの審査もあっという間に通った。

大きな存在の下にあることは、それだけで自分を立派なものに変えてくれるような気がした。概ね順調な人生に思えた。
しかし自分が祖父のように立派な医療従事者になることや、会社で出世していくことを考えたとき、直感的に自分には無理だと悟った。
そして就職して三年半。私は二回の休職を経て、自分がいち会社員として生きていくことすら難しいことを知る。

休職して間もない頃、私は働いていない罪悪感と将来の不安でいっぱいだった。休む前は働かずに過ごせるなんて最高だと思っていたが、人は休んだら休んだで悩む生き物だ。自分の進路について、ああでもない、こうでもないと考える。
やはり学校生活でも破綻していた自分に、人並みの社会生活は無理だった。医療系の進路しか選ばせなかった親のせいでこうなった。あの家庭で育たなければ、もっと高いパフォーマンスを出せるだけの能力が自分にはあったのに。貯金が減っていくのが怖い、早く復職すべきじゃないか。
ぐるぐる、ぐるぐる、考える。

そんな矢先に「無職本」と出合った。無職を経験した人々がその期間を振り返る形式で、文章やマンガを掲載していた。

その中の一節に、私は感銘を受けた。ミュージシャンの男性が書いた文章だった。彼はミュージシャンを目指して上京したが、生活のために工場で働き始め、次第に音楽から遠ざかった。正社員デビュー(メジャーデビューとルビが振ってあった)を経て数年働いていたが、定年まで勤めた男性を見てこの生活を続けるのは自分には無理だと気付き、仕事を辞めてミュージシャンを再開するという経歴を持っていた。

一般的に『無職』とは、定職に就かず、稼ぎのないことを指す。それに倣うと、僕にとっての無職期間は、正社員の仕事を辞めて、家に籠り音楽だけをやっていた時期が、それにあたるのだろう。
しかし、僕自身としては、就職し音楽と離れてしまった期間を『無職』だったと主張したい。その『無職』であった期間があったからこそ、現在に至るまで、ミュージシャンでいられるのだから。

無職本
(松尾よういちろう、幸田夢波ほか/水窓出版)

先日、友人のライブへ出かけた。友人が私のことを「小説家」と紹介してくれた。
小説でお金を稼いだことはない。まだ新人賞への応募すらしたことがない。それでも彼にとって私は「薬剤師」でも「広告代理店の会社員」でもなく「小説家」なのだ。「小説家」という肩書きは職業の一つではあるが、どこか無頼の香りがする。
祖父は亡くなり、復職も考えられなくなってきた。今や自分の上に大きな存在は何もいない。これから仕事を辞めてしまえば、私は正式に無職になる。復職か転職をすれば会社員としての身分を続けられるが、働きながら小説を書き続けることは私には難しそうだ。
私にとって、どちらの選択が『無職』なのだろうか。

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