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ペテルブルクに架かる橋(前編)

 モスクワは上空から見るとダーツボードのように見える。
「地球の歩き方」を見て知ってはいたが、広大な銀白色の大地の中に、赤いレンガでできた円環を見付けると、私はひどく興奮した。
 
 2019年3月の某日、私はロシアへ旅立った。一人ぼっちの卒業旅行である。

 ロシアを選んだのは、旅先で同じ卒業旅行で来ている大学生に会いたくなかったからだ。 
この期に及んで私は同年代が嫌いであった。かといって完全に一人で行ける自信もないのでツアーにしたのだが、目論見通り卒業旅行の大学生はいなかった。大学時代を象徴するような、卑屈感満載の理由である。
 「なんでロシアに?」という人に真面目に話してはよく呆れられた。

 加えてロシアに興味をもったきっかけがある。オリガ・モリソヴナの反語法 (著・米原 万里 /集英社文庫)という小説である。 
 主人公が学生時代踊りを習っていた先生について、旧友と共にその過去を辿っていく。話が進むにつれ、彼女がソ連時代に収容所で凄惨な生活を送っていたことが明らかになる。食糧を与えられないまま狭い部屋に押し込められる、家族があらぬ疑いで銃殺される…。
 全体的な内容としては、読んでロシアに行きたくなるようなものではなかった。 
 しかし、収容所でのあるシーンが目に留まった。夜眠る前に人々が、有名な劇や文学を記憶から掘り出しながら読み合うのだ。空想の世界を共有することで、その分睡眠時間が減ったにもかかわらず、人々は以前よりも活気を取り戻すことができたのだ。 
 今でもロシアにはオペラやバレエなどの芸術文化がある。極限の状況においても人を支えられるほどの力が、そこにあるのだろうか。

 では、行ってみようではないか。

 3月のモスクワはまだ寒かった。着陸時モスクワの気温はほぼ0℃。飛行機でのアナウンスでは晴れと言っていたのに、降りてみたら吹雪いていた。この程度ならノーカウント、ということだったのかもしれない。上陸前、遠くに大きな川が凍っていたのが見えた。 
 モスクワからサンクトペテルブルク行きの国内便に乗り換え、ホテルへ向かう。ロビーでチェックインを待っていると、視界の端に何か通り過ぎる気配があった。灰色の小さなネズミだった。
 長旅に疲れていたからかか、皆顔を見合せるも、「寒いものねえ」と苦笑いするだけだった。ネズミがロシア語で何と言うのかを知らなかったから、ホテルの人に伝えるにもどうしようもなかったのだが…。
 

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