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余白のなかに/5分で読める現代短歌08

すれちがう人の多さが春である疎水のみずを渡りゆくとき
/松村 正直

 ひろがりのある歌だと思う。余地、余白、余裕と言い換えられるかもしれない。空間的時間的なそれらがうたわれ、同時に、それは主体の心身のゆとりともなる。

 松村は京都市在住。ここでの 〈疎水〉 は、京都の琵琶湖疎水のことだろう。鴨川を代表として河川の目立つ京都において、疎水はその街並みに溶け込んでいる。しかし、川の幅は鴨川などに比べずいぶんと細い。そこに架かる橋も、当然ながら短いものとなる。その橋を渡るときというのだから、ほんとうにわずかな時間の幅の話だ。その間にすれちがう人の多さに気づき、春を実感する。これが歌の大意だろう。そこにさらなる詩情を与えているのが、前述のひろがりだ。

 この歌には、三つの軸でひろがりが備えられている。

 一つに、主体の運動に関するひろがりだ。わずかな橋のあいだに多くの人とすれちがうとき、主体の周囲にはそれだけの空間が必要となるだろう。しかし、そこに春を実感する余裕が主体にはあり、苦痛なほどの人混みではなさそうだ。人の多い理由にはいろいろと考えられるだろうが、ここでは春の陽気、活気ということにしておきたい。人々が存在することで意識にのぼる、周囲の空間。そして、おそらくは、橋のこちらにもあちらにも、まだまだ春の人々がいる。短い橋が、ひろがりを得る。

すれちがう人の多さが

 次に、水の動きによるひろがりだ。これまで評の中で「橋を渡る」という表現を使ってきたが、掲出歌では 〈みずを渡りゆくとき〉 と歌われている。歌にひろがりを与えるという観点から、疎水の水を取り出すこの修辞は効果的だと感じる。橋に対し、疎水の流れは交差している。ここではわかりやすくおよそ垂直であるとするが、主体がその水を渡りゆくとき、水は、主体の動きと垂直に流れてゆく。主体の動きが橋と平行な方向へのひろがりをつくるとき、水は、垂直な方向へのひろがりをつくりだしている。もしもこの歌が長く続く川沿いを歩いている歌であったならば、この効果は得られなかった。また、《疎水の橋を渡りゆくとき》であったならば、これらの空間的ひろがりは得られなかった。実景と、捉え方の僅かな差によって、大きな効果を生み出すことに成功している。

すれちがう人の多さが春である疎水のみずを

 最後に、時間のひろがりだ。〈すれちがう〉 とは、本来は一瞬の動作である。しかし多くの人とすれちがうとき、その一人ひとりとすれちがう瞬間が積み重なるようにして厚みをもつだろう。より踏み込んで述べれば、あくまでも<人の多さ>にある主体の意識は、 〈すれちがう〉 という一瞬の動きに継続性を感じているように思える。〈すれちがう人の多さ〉と歌いつつも、実際には「人の多さ」という概念とすれちがっているように思える。春である、という気付きのきっかけになるその概念は、認識されてから主体の意識にのぼるまでの継続性をもつ。概念でありながら、ある種の厚みをもつ。また、〈渡りゆくとき〉という表現からも、その厚みはもたらされているだろう。一瞬を捉えることでその前後の幅を感じさせるというのは短歌の得意とするところだと思うが、掲出歌では修辞によって一瞬を拡張しているようだ。そして拡張された一瞬は、移りゆく四季のなかの一つとしての春という、より大きな時間とその余白のなかに収められる。

すれちがう人の多さが春である疎水のみずを渡りゆくとき

 これらのひろがりが、上句の大胆な把握と言い切りで提示される実感にゆとりを伴わせ、いっそうの詩情を与えているのではないだろうか。歌全体に、目立った喩や見立て、目を見張るような修辞があるわけではない。構造もシンプルで歌意もとりやすく、難解とは言い難いだろう。しかし、その実、この端正な歌のなかでは、これまで長々と評してきたように、多くの心配りがなされている。東郷雄二の言葉を借りれば、「(収録歌集『午前3時を過ぎて』の松村の歌には)修辞がないわけではないのだが、修辞の跡が見えない」(丸括弧内は北虎)のである。丁寧にうたわれている、好きな春の歌のひとつだ。

すれちがう人の多さが春である疎水のみずを渡りゆくとき
/松村 正直『午前3時を過ぎて』

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(『京大短歌22号』からの再掲)

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