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ひとりの躑躅/5分で読める現代短歌15
さみしいは何とかなるがむなしいは 躑躅の低いひくい木漏れ日
/千種 創一
第二歌集『千夜曳獏』せんやえいばく より。
2016年の第一歌集『砂丘律』さきゅうりつ が所謂歌壇の内外で好評を博し、一部の歌がTwitterで多くの反応を得るなどした中東在住の若手だ。待望の第二歌集と言えるだろう。
こんな短歌を詠みたい人生だったな pic.twitter.com/biw9BcM36y
— 🌉 (@Ots_mh) March 14, 2019
個人的に、一読して『砂丘律』と『千夜曳獏』はかなり質感の異なる内容になったと感じている。
前者に比して後者は中東の生活詠・時事詠が影を潜め、修辞的にはかなり直接的な表現が増えたようだ。砂漠にあって、歌集を通して姿の朧げな〈あなた〉への哀切を懇々と滾々と湧き上がらせて/降らせている(水にまつわる歌の多さよ!)のだが、そのうたいぶりは『砂丘律』に見られた隠喩や多様な口調, 効果的な句読点に倒置/擬人といった技巧に代わって、直喩, 助詞抜きの口語体など、良く言えば(おそらくは意図をもって)シンプルに削がれた文体が主となっている。厳しい目で批判するなら、歌の構造や見せ方(修辞)がかなり似通った一辺倒になってはいないだろうか。手持ちのなかから、とかく直情のストレートを投げている。もちろん読むタイミングや個人の好みもあるもので、ストライクゾーンど真ん中に受ける読者もいるのだろう。機会があれば多く具体例も引いて検討したい。
この変化と、後書にあるとおり千種が〈ここ数年、短歌から離れようとした〉〈そしてまた短歌へ流れ着いてしまった〉ことは、まあ無関係ではないのかもな、と思わなくもない。自身の渇き、そして〈あなた〉の湿度、川。砂漠の大雨は洪水になると聞くが、その感情の〈濁流〉は、どこから湧くものか。(もっとも、中東では冬季にそれなりの雨が降るようだ。)
ともかく、前作『砂丘律』の刺さったひとこそ読んでほしい。
閑話休題。
さみしいは何とかなるがむなしいは 躑躅の低いひくい木漏れ日
引用歌は、歌集『千夜曳獏』のなかで取り扱われるテーマのひとつを代表していると感じられる。つまり、“むなしさ” との付き合い方について。他の通奏低音に “正解/後悔” や “記憶/忘却” などもあるが、今回はこの歌にする。
さみしいは何とかなるがむなしいは
上句のあとには、《何とかならない》が省略されていることだろう。“さみしさ”に対しては対処法があるけれど、“むなしさ”にはどうしようもないのだと言う。この感覚は、言われてみれば納得できるひとも少なくないかと思う。
より歌のテキストに則せば、〈むなしい〉という状態には対症療法的なアプローチも取れずに手をこまねいてしまう……と言いきることもしないほどのどうしようもなさ。
このとき、〈むなしい〉が誰の状態なのかは不定だ。〈わたし〉かもしれないし、誰かの、たとえば“あなた”の〈むなしい〉なのかもしれない。後者であれば、言われた台詞という可能性も高まる。それはそれで、いい読み筋のひとつなんじゃないだろうか。もし《さみしさは何とかなるがむなしさは》であれば、自身の感傷である読みのほうが強い。ここでの《さみしさ》《むなしさ》は、明らかに主体の取り扱える対象として在るから。しかしこの歌ではそうでなく、状態として〈むなしい〉のです。
むなしい、空しい、虚しい。
うつろであることを意識するとき、下句の景が目にとまる。
さみしいは何とかなるがむなしいは 躑躅の低いひくい木漏れ日
躑躅は低木花であるから、その〈木漏れ日〉の低さたるや。石垣や坂道の傍など、主体の立ち位置よりもやや高くから咲いているのかと想像しなくもないが、〈低いひくい〉の強調に重きを置けば、同じ地平の傍らにあるとしてもいい。
しかしいずれにせよ、躑躅のように密集度の高い低木で木漏れ日ができるためには、およそ真上、高くから降る陽光であることが必要だろう。木漏れ日がある、ということは、枝葉のすきま、そしてその木漏れ日を見られるような視線の通路があるということだ。想像できる多くのシーンにおいて主体は木漏れ日の差す木々の下にいるが、躑躅においては外から見ている。
〈むなしい〉との向き合い方を定めきれないでいるとき、空間とも言い難いわずかな間隙に目がとまる。ひかりに満ちているのだろうそのすきま、透き間は陰影によって見つけられる。
あかるいなかにあって自身のくらさが際立たされるということは往々にしてある。ともに、満ち満ちた充実の誰かと対比して己の不満がまざまざと感じられるということもある。隣の芝はいつも青く見えがちで、あざやかな花が咲いているに違いない。
この歌では、そのあかるさにこそ自身の空虚が見透かされているようだったのかもしれない。あかるい真昼、なにもなさを持て余している。〈さみしい〉に思いを馳せるとき想起される他者にすら届かない、〈むなしい〉はただひとりの胸に差している。
さみしいは何とかなるがむなしいは 躑躅の低いひくい木漏れ日
/千種 創一「越えるときの火」
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