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存在しない弟/5分で読める現代短歌09

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ
/フラワーしげる

 フラワーしげる第一歌集『ビットとデシベル』収録歌で、わたしの特に好きな歌は二首ある。掲出歌と、もう一首が下記の歌。どちらも、何かの折につけ思い出している。

犬はさきに死ぬ みじかい命のかわいい生き物 自分はいつか死ぬ みじかい命のかわいい生き物

どちらについて話すか迷いましたが、歌集の(たしか)巻頭歌である掲出歌を選びました。

 ページをめくると、まず謎の自己紹介から始まる。
 しかし、正直よくわかりません。だれ?

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

 これまで取り上げた、たとえば吉川宏志や山階基とは大きく異なるタイプ。“わからなさ”は必ずしも悪いことでもなければ、もちろん手放しに良いことでもない。人それぞれのわかりやすさとわからなさがあるなかで、ぼくにはこの歌くらいの“わからなさ”は心地よく感じます。ほどほどに“読めそう”だからです。“読める”とは言っていません。しかし、そもそも、短歌を、もっと言えばテキストを、まさしく“読める”なんてのはまやかしかもしれない……。

 ともかく、この“読めそう”感にぼくはこの歌を“読まされて”いるのですが、この“読めそう”感がどこから来ているのかをまず考えようと思います。
どう取り組んでいいかわからなくなったとき、歌意, 修辞, 韻律に分けてみましょう。ぼくも書きながら考えます。たぶんちょっと長くなります。

 まず、歌意ですね。
 なんだかよくわからないが、わたしの弟を名乗る何者かがいる。その発話という形式をとっている。自己紹介をしてくれているわけですが、〈存在しない弟〉であり〈ルルとパブロンでできた獣〉だと言う。だれ?

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

 得体の知れない何者かが、まず〈私〉との関係を〈存在しない弟〉だと規定してくる。しかし、〈存在しない〉のに自己紹介ができるとは、どういうことか。その謎はなお残り、以下で何かしらの納得感を求めたくなります。そのための補足情報として提供されるのが、〈ルルとパブロンでできた獣〉です。〈ルルとパブロン〉はいずれも医薬品で、市販風邪薬の代表格でしょう。医薬品でできた獣……?
 ここで、医薬品としての〈ルルとパブロン〉にどの程度の短歌的意味を求めたいかは、かなり個々人のスタンスによると思われます。ぼくは具体的な効能などまでは踏み込まず、それなりに名が知られており、音の響きがよく、専門性の高すぎない飲み薬であれば良かったのだろう、程度に汲んでいます。

 要は、得体の知れなさが少し和らぐ程度、わたしたちの実生活に近く、親近感の滲む“得体の知れなさ”です。ほどほどな“読めそう”感は、この語あたりからも香りますね。

 こういった情報を踏まえて〈存在しない〉を考えると、ここでの〈存在〉は、かなり実在の意味で使われていると言えそうです。〈存在しない弟〉は、言わば “弟的なるもの”と換えられるでしょうか。そして、非常に重要なのは、ルルもパブロンも飲み薬だということでしょう。はっきりと体内に取り込み、内部から作用する何かしらだということです。

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

 このように汲むとき、〈存在しない弟〉は、〈私〉の内にいることに気づいた得体の知れない〈獣〉的なるものとして読むことが可能であるようです。というか、おそらくわたしはそのように読んでいます。〈私〉と似ているが〈私〉ではない〈ルルとパブロンでできた獣〉が、〈私〉の内にいる。弟、ということからも、立場的にはどうも〈私〉のほうがまだすこし優位に立ちやすいようです。しかし、いつ寝首を搔かれてもおかしくはない……。

 “内にいることに気づいた”と書いた理由から、修辞の話に入りますね。

 初句〈おれか〉という口火をおもうに、〈私〉(≒読者)がこの何者かに正体を尋ねたことが(強制的に)想像されます。その応答から、この歌は始まる。そして、この応答は落ち着いています。前々からそこにいて、いまようやく認識されたかのように。

おれか

 先ほど歌意の話の冒頭で “得体の知れない何者かが、まず〈私〉との関係を〈存在しない弟〉だと規定してくる。” と書きましたが、この関係性の規定は修辞においても為されているわけです。〈存在しない弟だ〉という発話は、どちらかと言えば〈私〉と〈獣〉の関係性。〈おれか〉の応答は、どちらかと言えば読者と〈獣〉の関係性。〈私〉と読者を無理矢理に近づけるちからとして口火を切っている。

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

 二回の一字空けもいいですよね。句点とすることもできたかと思いますが、そうすると途端に“得体の知れなさ”が薄れるように感じます。発話ではなくテキスト性が強まるほど、非常に人間的な手つきになるので……。

 しかし、字空けも含めてなんとなく短歌定型のリズムで読めていますが、その実ぜんぜん31音には収まっていません。先ほど初句〈おれか〉としましたが、どう句切って読みましょう。
 個人的には、〈おれか〉を助走に読んでいます。言うなれば第0句です。

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

3・7・7・5・7・7 ですね。初句3音という読みも可能でしょう。

 まあ実際のところ、どう句切るかは、この1パターンしかないのではないかと感じます。初句〈おれか おれは〉とか、ないでしょう。計36音で、31音に収まっていませんが、基本は七五調です。特に5・2ではなく4・3の7音が多いため、〈おれか〉も違和感なく迎え入れられると思います。韻律の話に入っています。

 さて、36-31で5音ほど余っているわけなのですが、何があふれたために短歌定型は拡張されているのでしょう。追加で存在をゆるされたフレーズは何か。この歌のなかでの5音は〈弟だ〉〈パブロンで〉なのですが……。

 実際のところ、存在をゆるされているのは〈存在しない〉ではないでしょうか。

 仮に〈存在しない〉が“存在しない”場合、初句3音(字空けに拍)として十分に短歌定型に収まります。しかしこの歌では存在し、歌意に強く寄与していますね。〈存在しない〉と明言されることで、逆説的に、〈私〉にとっては“得体の知れなさ”が強まることで存在を意識させられる。
 〈おれはおまえの〉も7音ですが、こちらを除くと、発話として不自然になってしまう。〈存在しない〉こそが、存在しない可能性があったが存在している句です。

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ

 この歌にはほどよい“得体の知れなさ”と“読めそう”な感覚が均衡を保っており、その感覚は、わたしにとっての自分自身に対する感覚とも似通っているようです。仮想他者を内在化することによって内省を促す、私的/詩的な兄殺しの企図……かもしれません。

おれか おれはおまえの存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ
/フラワーしげる「死と暴力 ア・ゴーゴー」

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なお、フラワーしげるは翻訳家 西崎憲の筆名です。
西崎はnoteも書いています。


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