とら~ぬと麻雀Ⅱ~初めての大会と遠征~

とら~ぬが初めて本戦に出場した大会。それが青雀旗である(当時は大阪開催)。各地方の予選を通過した大学生ペアのみが出場できるこの大会。卓の巡り合わせが良ければプロの解説も付いた放送卓で打つことも出来る。

1.出会いと助言

当日の朝、始発のこだまに飛び乗った私は浜松でひかりに乗り換え、新大阪駅にて相方と合流。そのまま会場、天山閣に乗り込む。

大阪駅から少し歩くと大きなパチンコ屋の上に構えられているその店は、新橋の新雀荘に勝るとも劣らない広さと卓数。そこに集まる日本全国の学生達。否が応でも緊張するというものだ。

こういう緊張というかテンションが高まっている時に限ってとら~ぬはやらかす。これはもはや自然の摂理である。

当日パンフレットを読みながらそれまで解説がトイツ王子でおなじみ、土田浩翔プロだったのに対し、この年からは静岡県出身かつ史上最年少鳳凰位の記録を持つ望月政継プロ。

とら「わー今年、はつっちーならぬもっちーかー」

望月プロ「いるよ?ここに・・・」

やらかしである。怒られても文句言えないレベルのやらかしである。

とら「わー!すみません!本当にすみません!」

望月プロ「いやいや、いいんだよ。気にしなくて。」

そんなこんなで始まった1戦目。テンションは高いが他家の手が速く高い展開。冒頭に親満に飛び込んだ後はそのまま特に良いところも1つもなし。終ってみれば最後はきっちり満ツモを親被り箱下500点のラス。この日はもうほぼ確実にお通夜である。

終わった…大阪まで来てこの体たらくか…。どっと疲れたのもあるが卓からしばし動けない私。頭の中をゆっくりと整理し、ひとまず次の卓に向かう。

結論から言おう。この日は吐きそうなほどに負けた。4244で▲100くらい(ウマの計算は連盟方式の最高位戦ルール)。ベッコベコである。全参加者の下から三番目だった(というか最下位も覚悟していた)。

対局の合間にすっこすこに負けて意気消沈しながらトイレに寄る。何の気なしに用を足していると横に立ったのは先ほど死ぬほど失礼を働いた望月プロではないか。この時の会話は今でも覚えている。

とら「ああ、望月プロ!先ほどは大変失礼いたしました。」

望月プロ「ああ、大丈夫。そんなに気にしなくていいよ。それで?今日の調子は?」

とら「いや・・・全然です・・・。こう・・・手牌の進行上なのかもしれませんが聴牌打牌全部刺さるんですよ。」

望月プロ「え?簡単だよ。じゃあ切らなければいい。」

とら「ん?(そんな無茶な・・・と思ってました望月プロごめんなさい)」

望月プロ「余る牌が放銃につながるんでしょ?そこでもう一度自分の手牌と相談して、それでも切りたくないならそこから出ないように粘ることが勝負をあきらめないことにつながるんだよ。」

この言葉は自分の麻雀の中でも大切にしている。できているかは別として・・・

2.その後のとら~ぬさん

大会終了後大学の同期に新幹線から連絡した。

同期「それで?楽しかった?」

とら「え?まあ・・・楽しかったけど・・・内容がふがいなくて申し訳ない。」

同期「私はあなたが楽しんできたというならそれで満足。あなたは元気なのが一番だから。」

この青雀旗の負けが端緒となり、あきらめきれなさ過ぎて卒業までに数出ようと大会に出始めた。この年同時に發王と日本オープン予選に出場した。

發王予選は最終戦に露骨な河のチャンタに放銃しボーダーに届かず、日本オープン予選は▲200近く負けた伝説がある(当然ぶっちぎりの最下位)。

それから自分は地元の企業に就職。最初の1年はとにかくなれることに専念したり他にやることも多かったのでたまーに参加していた程度だった。

そんな調子が1年ほど続いていたある日、たまたま日程が空いて出場したRMUスプリントで事件は起きた。

とら~ぬと麻雀Ⅲ~おそらく一番成績が良かったころ~へ続く

当方へのサポートはこちらから。こちらを原資として様々な活動に使わせていただきます。