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いとしい古本

あるエッセイの原書リーディングを依頼され、この2週間ほどかかりきりになっていた。リーディングとは、"reading"だ。ただし単に原書を読むだけでなく、著者の紹介、梗概(あらすじ)、感想、類書の紹介と比較、原書の文体の分析、訳す上での留意点、日本での受け入れについての予測など、その原書をあらゆる方面から分析してA4数枚にまとめる仕事である。正直に言うと、訳すよりも難しく、ときとしてつらい仕事になる。特に類書を探すのが大変だ。2週間という短い期間に対象の原書を読むだけでなく、類書も数冊探して読んで比較検討するのだから、時間がいくらあっても足りない。

幸い今回は手元に比較できそうな本が2冊ほどあったので助かった。手元に類書があるということは、自分はこの手の本が好き、と判断できる。リーディングをしたのはアメリカの大都会に住む著者のエッセイ。この本からはポール・オースター原作の映画『スモーク』と『ブルー・イン・ザ・フェイス』に似た雰囲気が感じられた。どちらも大好きな映画で、むしょうにこの原作を読みたくなり、ネット書店を探したところ、1995年に出版された文庫本が1500円ほどで売られていた。30年近く前の本で絶版になっているからには、この値段もしかたない。納得して購入し、数日後に届いた薄い包みを開いた。

いかにも古本らしく小口もページも薄茶色に染まった文庫本が現れた。タイトルどおり煙でいぶされたかのようで、そういう装丁が施されているように感じられて何となく気に入った。さっそく開くと、最初の数ページがすぐにぱらぱらとほどけた。「あっ……」思わず声が出た。そして不思議な感情が湧いてきた。嬉しかったのだ。本のページがほどけてしまったら、ふつうなら悲しい。だけどこのときは違った。開いただけでほどけるほど古くもろくなった本、ぎりぎりの状態で「本」の体を成している儚く尊く、大切なものを、自分は手に入れた。だから嬉しかった。

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ほどけたページを落とさないように気をつけながら、ここ数日、夜寝る前にこの本を読んでいる。脚本形式で書かれているため、「〇〇が仕事をしている。フェイドアウト」、「画像がフリーズ」などのト書きが頻出するけれど、すぐに慣れて、むかし見た映画の場面が頭の中に浮かんでくるのを楽しんでいる。こうして活字で読んでみると、やはりいい作品だ。映画を観たときは20代、まだ人生のなんたるかもわからなかった。登場人物はみなそれぞれに切ない事情をかかえているけれど、見終わったときには、寄り添い合う人の優しさのようなものをじんわりと感じながら席を立ったように記憶している。こうして原作を読んでいてもやはり、あの頃と同じような、温かい感覚が湧いてくる。リーディングの仕事のおかげでこの本に出会えた。依頼元のOさんに深く感謝する。




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