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流れの中の”あいだ”としてのサステイナビリティ

今日は、流れのなかの”あいだ”としてのサステイナビリティ、という考え方について書いてみたいと思います。

1.「動いているものを動いているままに捉える」を考えてみる

きっかけは「動いているもの(動的なもの)を動いているままに捉えるのはどうしたらいいのか?」を考えはじめたところから。

生命体の場合については福岡伸一先生の動的平衡があります。エントロピー増大の法則に生物が先回りしてみずからを壊す仕組みがある、という考え方。一種の定常状態がどのようにつくりだされるのかを示してくれるもので、サステイナブルなもの・仕組みとはどのようなものなのかを考える上でとても参考になります。

しかし、自然なもの(非人工的なもの・人間がつくりだしたものでないもの)について当てはまる概念を社会的なもの(人工的なもの)に当てはめるときには注意が必要です。なぜなら自然なものが従っているルールは不可変的ですが、人間社会のルールは可変的だからです。

例えば動物の世界には、食物連鎖や棲み分けのルールがあり、それを変更すると仕組み自体が壊れてしまいます。ゆえに、不可変的です。

人間社会の場合にもヒトとして存在する以上、自然のルールに従うことが原則なわけですが、人間はそれに抗うことができます。また、そのような自然のルールとは別に、人間社会のルールを作ることができます。例えば人権、民主主義、資本主義などがそれです。現代ではこれらのルールが普遍的なものとして扱われていますが、あくまで人間が作り出したものであるので、可変的です。

人間社会の文脈で動いているものを動いているままに理解することについては、安富歩先生の『複雑さを生きる―やわらかな制御』がとても参考になりました。(残念ながらこの書籍は岩波書店では絶版になっており、私は大学の図書館で借りました。)

動いているものの動きを一旦止め、分解して、それぞれのパーツについて分析し、そうして得られた個別パーツについての理解の総和を得ると、全体のことがわかるようになる(気分になる)、という考え方を「計画制御」の視点と呼び、これが間違っていることを指摘しています。その上で、動いているもの(動的なもの)を動いているままに理解し、それが内包する複雑さに適応しながら、やわらかな・やさしい制御をしていかなければならないと提案しています。

一見場当たり的方法に聞こえますが、そうではなく、人間の持っている複雑性を理解する超高スペックの認知・分析能力を信じる、というところに本質があります。私もこのしなやかな考え方がとても大事だと思います。

2.流れのなかの”あいだ”としてあること

やわらかな・やさしい制御では、どのように対象を捉えるのか、ということを次に考えてみました。

これについては、『福岡伸一、西田哲学を読む』で語られている西田哲学の考え方がとても参考になりました。この本についてはアマゾンのレビューに書いておいたところなので、もしよかったらこちらもぜひ。

西田哲学は言葉がとても難解なので、十分に理解できたという感覚はまだつかめていないのですが、この書籍にて福岡先生自身が西田哲学を理解する過程を共有してくれたおかげで、その片鱗を少し理解できたように思います。

動的平衡も西田哲学も「あいだ」を見ています。動的平衡は生成と分解、西田哲学は時間と空間、というように、相反する・ついになるもののあいだを見ていくなかで共通の認知論にたどり着きます。途中で今西の棲み分け理論の競争と協調関係のあいだ・せめぎあいの考え方が出てくるあたりも好感でした。このオリジナルは、古代ギリシャ哲学者ヘラクレイトスの「相反するもののあいだに最も美しい調和がある」という言葉。詳細はこちらの書籍を読んで頂くとして、さて、これらの一連の「あいだ」として現実世界を切り取っていく視点をサステイナビリティにあてはめてみるとどうなるのか。一気にワクワクしてきました。

3.流れのなかの"あいだ”としての地域のサステイナビリティ

私のフィールドは農山村地域なので、この「あいだ」の視点を地域に当てはめて考えてみました。ヴィジュアル化してみたのが次の図です。

流れのなかのあいだとしての地域

先の議論と同様に、ここではある地域(地域A)を流れのなかの”あいだ”として描いています。では何がこの流れをつくるのか。流れをつくる複数の軸を考えてみました。

日本の農山村地域の場合、地域や集落は、おとなとこどものあいだ(継承・世代間関係性)、人間と自然のあいだ(里山・社会生態系)、そして定住者と漂白者のあいだ(文化・内発的発展論)の流れのなかの”あいだ”として存在しているように思います。これらの他にも流れをつくる軸はあるでしょうし、何が軸になるのかはあるものについては普遍的で、あるものについては固有のものであると思います。

この流れのなかの”あいだ”は、ちょうど川の流れのなかの淀みの部分と同じように捉えることができると思います。川はそこに川としてありますが、流れている水は常に入れ替わっています。淀みをつくる水についても同じで、一定時間はそこに留まりますが、入れ替わっていかなければきれいな水を保てません。

これを地域に置き換えてみると、一定時間ものごとはとどまっていなければいけませんが、同時に一定時間後には流れて入れ替わっていかなければ、地域を維持していけないことになります。こう考えてみると、固定化された地域というものがあるのではなく、対になる軸の流れのなかにある、ある「あいだ」として、常に動きながら存在する、ということが見えてきます。

私は、サステイナビリティは、私たちが将来世代にわたって持続していきたいことを考えて、それらが既にあるものならば継承して守っていき、まだないものや実現できていないものなのであれば創り出して伝えていく、そんなコンセプトであり世界観のこと、というふうに捉えています。

これが流れのなかの"あいだ"として地域が存在するという見方から考えてみると、地域のサステイナビリティとは、複数の軸がつくる流れの”あいだ”を持続していくこと、ということになります。

このように考えてみると、人口が減ることや高齢化することは流れの変化のなかの一部ということになり、"あいだ"のあり様に影響はしますが、本質的なことではない・それがすべてではない、ということが言えそうです。

また、流れは地域の内と外を貫通して存在するものですから、ある地域の住民じゃないからとか、自分はよそ者だからとか、そういうことを理由に地域に関わることや関心を持つことを躊躇する必要もなさそうです。むしろ、外から関わる者が多い地域ほど、"あいだ"として存在するその本流の流れを太く大きなものにしていけるように思います。

こうして見てみると、流れのなかの"あいだ"としてのサステイナビリティという視点は、社会的なものの持続性を考えるときにも有用な視点になりそうです。もう少し色々な文脈に落とし込んで考えてみたいと思います。



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