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マスクのそと

するりと家のなかから逃げてきた、台所の料理の匂い。田畑の土が、キャベツやブロッコリーのような香りを立てる。そうか、あれは土そのものの匂いだったんだ、と、いまさらのように気づかされる。

政府もようやく、屋外ではマスクを外してよい、と本格的に言い始めた。日本の場合、屋外での活動については、法的根拠のある規制などなかったと思うのだが、「外してください」なら言ってもよいだろう。実際、広々とした河川敷なのに、ランナーやサイクリストが、息苦しそうにマスクを着けていた。「外してください」ときちんと言うのも、適切なアナウンスメントがいる。当たり前のことも、3年もあれば、当たり前ではなくなってしまう。

どこの家の庭からも、様々な香りがしてくる。クチナシやバラ、あるいはキンモクセイのような分かりやすいものだけでなく、かすかな香り、気に留めなかった香り。私はこの初夏に初めて、「バンマツリ」という花の名を知った。公園でやけに甘くまぶしい芳香を漂わせていた花の、看板を探してみたところ、そう書いてあった。もちろん、前から匂いはしていたに違いない。変わったのは、それに改めて意識を向けざるをえなくなった、こちらのほうである。

外的に大幅な変化が生じたとき、人間には移行(transition)が生じる。外で起きた変化を吸収するため、自分の信念(belief)を動かすのだ。ここでいう「信念」とは、広義のそれであり、「当然だ思い込んでいたもの」というのに近い。

入口を閉めよ、それが安全のためだ。そんなことを3年近く、我々は聞かされ続けてきたらしい。国の入口を閉じ、個人の口を閉ざさせた。文句を言う人にまで「口を閉ざせ」という風潮も見られたが、それはまた別の話にしておこう。入口を閉じることにより、私たちの信念に移行が起きないはずはなかった。

3年という時間は、この移行した信念が新たに定着するのに、十分である。欧米や東南アジアではまったく定着しなかったようだが、日本では抵抗感が低かったのだろうか。花粉症や風邪引きでもないのに、マスクをするのが当然となった。

先日のことである。100人ほどの集まる会合に参加した。最後に、写真撮影のために一瞬だけマスクを外してほしい、と主催者側が求めたところ、会場内にはっきりと感じとれる躊躇が広がった。ためらわずに外した人は、ほとんどいない。周辺の顔を見つつ、手元をマスクに向けながら、ゆっくりと外す。「大勢集まるところでマスクを外していいの?」。規範を犯しているような気になった人々が、そろりそろりと、マスクを外す。

大のおとなが、マスクひとつ外すのに自己判断もつかないとは、いささか奇妙な光景ではある。なかには、外したくないが主催者がそういうのであれば、と渋々外す人もいたことだろう。マスクを外す人ばかりが、自発的意思の満ちた人間ではない。撮影が終わると、みんなそそくさと我が口を閉ざしていた。

25年後に、「あの頃の写真」としてこのパンデミックを振り返るとしたら、マスクをつけた群衆に違いない。東京駅や品川駅の、マスクをつけた人の群れ。それは、ただひたすら息苦しかったこの3年間を象徴するに相応しい。

今日(2022年10月11日)、海外に対する水際対策が大幅に解禁される。入国上限は撤廃され、到着時の検査もない。ほぼコロナ前の状態に戻ったことになる。入口を開けることが、コロナからの出口だ。ようやくそういうことになったらしい。

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