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雨を纏って / ウブド(3)

2003/09/12

今日は満月の夜だと聞いた。けれども昼下がりのウブドの空は青磁色の雲に覆われ、薄い真綿のような雨が音もなく降り続いていた。

雨宿りも兼ねて入ったネットカフェで何通かのメールに返事を書き、あとは頬杖をついてニュースサイトを眺めた。目を閉じると切なく澄んだ東京の秋空がまぶたに浮かんだ。

ここ数日いつもこんなふうにして時間を潰していた。雨のブラスタギでもそうしたように、小さなノートに記した旅の記録を自分宛のメールにして送り続けた。旅なんていつか終わる。それは最初から分かっていたことだった。

文字を打つのに疲れてしまうと、早々にネットカフェを切り上げ、部屋に戻ってギターを弾いた。コンビニで買ったビールの小瓶を傍に置き、音楽が生まれる瞬間をじっと待ち続けた。

いつでも最初に浮かぶのは言葉でもメロディでもなくリズムだった。今回はロックステディの緩やかな裏打ちのビートだった。立方体の岩からノミと金槌で彫像を取り出すように曲を書いた。旅に出て最初の一曲。

サッカー場に程近いゲストハウスで過ごしてもう三日が過ぎていた。宿に部屋は三棟しかなく、ぼくが泊まっていたのはいちばん簡素な部屋だった。不潔というわけでは決してなかった。むしろ唖然とするほど掃除が行き届いていた。

家族経営のゲストハウスだったせいもあり、お母さんはそのままゲストたちの母のような存在だった。彼女は通称「クリーン・クイーン」と呼ばれていた。キレイ好き女王。

その確固たる信念は宿泊客に対しても変わることがなかった。何度かぼくもきつく叱られた。部屋のゴミをまとめ忘れて蟻が集ってしまったり、サンダルを乱暴に脱ぎ捨てていたり、朝食の食器を返し忘れたりして。

もちろん部屋をきれいに使ってさえいれば何の問題もなかった。

朝食のジャッフルやパンケーキはびっくりするほど美味しかったし、何より相場の半額でホットシャワーを使うことができた。

連泊を条件に交渉をした成果だったが、それでもここまで大幅な値引きに応じてくれたのはこのお母さんだけだった。最初はふつうに交渉していたが、やがて他のゲストたちに知られないようにと、ふたりで部屋の影に隠れて声をひそめた。

提示した金額で落ち着いた時、お母さんは「まったく、こんな息子に育てた覚えはないよ」という不思議な顔をした。わずかな時間のやりとりだけでぼくらは何かを飛び越えてしまったのだと思った。

相変わらず他人の肌のような違和感があったが、それでも少しずつ新しいウブドに慣れつつあった。連日のように降り続く静かな雨がそうさせたのかもしれない。

したためた数枚の絵葉書をジーンズのポケットに突っ込み、霧雨を纏うようにして街を歩いた。郵便局はラヤウブド通りのプリアタン寄りにあったはずだったが、移転していても構わないとさえ思えるようになっていた。

途中デウィシタ通りにある貸本屋に立ち寄った。外観はすっかり様変わりしていたが、ここは六年前の夏にも足繁く通った思い出深い店だった。

ここ数日、毎日のように顔を出したせいもあって、スタッフのクトゥという青年とすっかり打ち解けていた。彼の穏やかな笑顔と静かな口調がぼくは好きだった。

書棚にはさまざまな言語で書かれた書籍が並んでいたが、きっと彼の性格なのだろう、独自のルールを駆使してどれもが几帳面に分類されていた。日本語の読み書きはまったくできないとの話だったが、山ほどある文庫本は作者ごとにきちんとまとまって並んでいた。

「ねえクトゥ、いつも不思議に思ってたんだけど、日本語の本はどうやって並べてるの?」

そうインドネシア語で訊ねるぼくに彼は笑いながら言った。

「いろんなところにヒントがあるんだよ。記号とか数字とかね」

そう言って彼は目に付いた一冊を手に取ってぼくに見せてくれた。坂口安吾の『白痴』だった。

「ほら、この記号とか。もちろん読めないけど、でもほら、こっちの本にも付いてるでしょう? だから同じところに置けばいいのかなって」

笑いながらクトゥが示したのは背表紙に書かれたひらがなの「さ」だった。そして、同じように「さ」が書かれた書棚の本は佐伯一麦のものだった。

「それからね、最後のページにアルファベットで作者名が書いてあったりするんだよ。コピーライトの部分。これで答え合わせ。同じ作者だって分かるからね」

すっかり感心しながらもう一度書棚に目をやった。五十音順ではなかったから並びはバラバラだったが、それでも作者ごとにまとまっているだけでも随分と見つけやすいものになっていた。

「すごいな、今まで気にしたことなかったよ」とぼくは改めてクトゥに言った。

「あはは、暇だからね。これ、アルファベット順に並べ替えた方がいいかな?」

「んー、それは止めた方がいいかな。日本語はABC順に並んでないから、かえって見つけにくくなっちゃうと思う」

芥川龍之介の次に坂東眞砂子が来たらきっと誰もが困ってしまうだろう。日本語の本がまさか作者名のABC順で並んでいるなんて予想すらできないに違いない。

クトゥと笑顔で別れ、ふたたび霧雨の中を歩いた。舗装された道路から立ち上る匂いは以前とは違う気がしたが、こうやって街を濡らす雨はきっと変わらないのだと思った。

ハノマン通りに差し掛かったあたりで急に何もかもが白々しくなってしまった。どうしてこんな駄文を書き連ねてしまったのだろう。ぼくが伝えたいのはきっとこの雨だけなのだ。

ジーンズのポケットに入れた数枚の絵葉書を取り出し、目についたゴミ箱の前で一枚ずつ破り捨てた。ふと、ちぎれた文字たちもやがて雨に濡れて輝く時が来るのだろうと思った。それがぼくの伝えたい雨だった。

届かない文字たちを思った。静かな雨が過去の隙間を埋めるように満ちていった。

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