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憧れの所在 / クアラトレンガヌ(3)

2003/07/12

昨日あんなことがあったせいか心がざわついてずっと苦しかった。すっかり日は暮れていたが、支払い済みの宿代を捨て、思い切って宿を変えることにした。どうにか気持ちを切り替えたかった。

モスクから東へだいぶ歩いたところに「Ping Anchorage Travellers Inn」という看板を見つけた。階下が瀟洒なバティック(ジャワ更紗)のショールームで、三階から上がゲストルームになっていた。外観から予想していた値段とは裏腹に、ドミトリーが8リンギット(約256円)だった。破格と言うしかなかった。

屋上にはレストランの名残のテーブルセットが並び、さらに奥まった場所には洗濯干し場があった。コンクリート打ちっぱなしの壁だったが、共用のトイレやシャワー室は清潔そのもので、どこか学生寮にも似た雰囲気だった。

十畳ほどのドミトリーは左右それぞれの壁際にベッドがひとつずつ置かれた不思議な空間だった。間延びした部屋の傍らに小さなタオル掛けがふたつ、ゴミ箱も左右にひとつずつ。天井の大きなファンは誰もいない空っぽの床に向けて大仰にぐるぐると回っていた。

シャワーを浴び、すっかり洗濯も済ませ、ひとりきりのドミトリーでしばらく目を閉じた。それからベッドの上で小さなノートに文字を記し、読みかけの文庫本を読んだ。うまく眠れるだろうかと、そんなことばかりを思った。

自覚している以上に日灼けの痛みは酷くなっていた。荷物を背負うだけで両肩に激痛が走る。痛みが治まるまで、もうしばらくここでじっとしていようと思った。

壁の向こうからかすかに響くアザーンの耳を澄ませ、本のページを繰り、痛みを気にしながらベッドの上でおそるおそる寝返りを打つ。そんな非生産的な時間が今は何より大切なものに思えた。

翌日は朝から激しい雨だった。しばらく空の様子を伺ったが一向に止む気配はなかった。諦めて雨に打たれながら銀行へ向かった。手持ちのリンギットが心細くなり、トラベラーズ・チェックを両替する必要があったからだ。

雨に濡れることにネガティブな気持ちがあったが、いったん濡れてしまうと途端に心地よい気分になった。飛び出してしまえば後は身を任せるだけでよかった。こんな単純な事実に気付いて少しだけ気持ちが楽になった。

目に付いた銀行で日本円のトラベラーズチェックを見せると「ここでは扱っていない。USドルならオッケーだ」とあしらわれた。「国営マレーシア銀行に行け」とつっけんどんに言われ、礼もそこそこに雨の中を歩きまわった。

やっとの思いでカウンターに着くと、今度はトラベラーズチェックの両替には手数料が余計にかかると告げられた。両替一回につき10リンギット(約320円)。更に、トラベラーズチェック一枚あたり0.15リンギット(約5円)が上乗せされるという。

それがこの国のルールだと頭では理解できたが、一泊8リンギット(約256円)の宿に泊まっている人間にとっては、その手数料だって馬鹿にならない金額だった。感情から言えばとうてい納得なんてできなかった。

仕方なく現金で五千円分を両替することにした。レート3.17から手数料が引かれて157リンギット。これまでで一番良いレートだったが、どこか素直に喜べない自分がいた。日本円と米ドルで、ましてや現金とトラベラーズチェックとでこれほどまでに扱いが違うものかと複雑な気分になった。

宿のそばのベーカリーで焼き立ての惣菜パンを買って昼食にした。全部で2.3リンギット(約74円)という安さだった。ソーセージロールとリングドーナツは日本で食べるものよりも表面がずっとカリカリしていて、思わず顔がほころんでしまうほどの美味しさだった。

もうひとつ「SARDIN BAN」というパンも買っていた。イワシとタマネギがトマトソースで煮込まれたものがみっちりと詰まったものだった。予想以上にパンとイワシの相性が良く、トマトソースも味わい深かった。河口の街らしいパンなのだと思うと余計に美味しく感じられた。

昼過ぎ、ベッドがふたつしかないドミトリーに一人の青年がチェックインした。オーストリアのウィーン出身で、自分はマイケルという名だと言った。二十四歳とのことだったが、高校生のように素朴な笑顔が印象的だった。

二人で屋上にあがり、土砂降りの雨音を聴きながら色々な話をした。彼はすでに半年近く旅を続けていた。タイ、ミャンマー、カンボジア、ベトナムと移動し、空路でマレーシアに入ってからは東海岸の沖に浮かぶ島々を巡っているという。

「プルフンティアン島はわりと安く泊まれたんだけど、んー、レダン島は美しいだけ。何も無い。安いゲストハウスなんてひとつも無かったよ。あはは、おっかしいよね、ぜんぶ値段の話になってる」

そう言ってマイケルは子供みたいに笑った。「この先は?」と問いかけるぼくに、彼は身を乗り出していたずらっ子のような目で言った。

「カパス島かな。もうね、この際だから全部の島に渡ってやろうと思ってるんだ」

もちろん値段のこともあったが、リゾートアイランドへ向かうことにあまり気が進まなかった。正直なところ、とにかくこの日灼けの痛みが治まらない限りはどこかへ移動すること自体が億劫だった。

「行かないの?」

「うーん。痛いんだよね、肩も、背中も、脚も。しばらく太陽から隠れていたい」

マイケルはパチンと指を鳴らして楽しそうに笑った。

「そっか、そういうことか。タイラが島に渡ると雨になっちゃうな。それは困る。せっかく島に着けたってのにね」

そんな言い方が楽しくてつられてぼくも笑った。出会ってからそれほど時間は経っていなかったが、この青年とならきっと仲良くなれるだろうと思った。

ふと、うだるような夏の午後、川底で見つけたサイダーの壜の欠片のことを思い出した。すっかり角が取れ、細かな傷でくすんだ青白いあの輝きは、幼い頃のある時期まで、何より確かなぼくの希望ではなかったか。無知だったからこそ、どんなものでも喜びに変える魔法を知っていたのだ。

マイケルがぼくに教えてくれたのはそんな憧れの所在だった。

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