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我も他者とて / クアラトレンガヌ(1)

2003/07/10

眠る前に服用した鎮痛剤はさっぱり効いておらず、陽に灼かれて爛れた肌の痛みは時間とともにますます酷くなった。立ち上がるだけで全身の皮膚が突っ張り、そのまま裂けてしまいそうだった。

チェックアウトを済ませた後、レセプションの女性に促され、バスの時間までしばらく休ませてもらうことにした。赤く腫れたぼくの二の腕を彼女は心配そうに見つめた。ふと席を立って片隅に置かれた年代物の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、彼女は何も言わずに手渡してくれた。もうずっと甘えてばかりだった。

ペットボトルを頬や首元に押し付け、しばらく目を閉じて小さく息をした。痛みが和らぐのはわずかな時間だけだった。すぐに温くなってしまったその水で、改めて化膿止めと鎮痛剤を飲んだ。薬が彼女のやさしさより優れているとは思えなかった。

十一時半に来るはずの長距離バスは定刻になっても姿を見せなかった。舗道の小さな木陰に腰を下ろし、閑散とした国道をぼんやり眺めた。

結局バスに乗り込めたのは十二時過ぎだったが、この程度のいい加減さに腹を立てることなど今のぼくにはなかった。チケットには「8C」と書かれていたがもちろんそんな座席は存在しなかった。目に付いたシートに身を投げ、膝の上でリュックを抱えて目を閉じた。

いつ着くとも分からない移動の繰り返しに新鮮味を失いかけていた。いや、ぼく自身のそんな心の在り方にうんざりしていた。いい意味でも悪い意味でも慣れつつあるのだ。

旅の高揚感と呼ばれるものなどそもそも最初からなかった。結局のところぼくが求めていたのはこの人生をおしまいにできる場所でしかなかった。

本当にこんな所で何をしているのだろう。どこにもぼくの居場所などないのだ。死に場所すらないのだ。

わずか二週間かそこらで旅という迷路にすっかり絡め取られていた。そして同時に、抜け出すのは思うよりずっと困難だということも分かっていた。

クアラトレンガヌに着いたのは午後三時過ぎのことだった。代わり映えのしないデジャヴのような街並みが騙し絵のように何層も続いていた。宿探しを兼ねて目に付いた通りを適当に歩いた。至る所にモスクがあることに気付き、そういう意味では他の都市よりイスラム色が強い気もした。

それなりに大きな、けれども古ぼけたモスクの先に「Pasar Besar(大きな市場)」と書かれた布地の問屋街があった。その傍らにカフェオレ色の大きな川。クアラはマレー語で河口を意味したから、この川はきっとトレンガヌ川という名前なのだろうと思った。

布地問屋の向かいに闇市のようなマーケットが広がり、香辛料、野菜、果物といった食材がごちゃまぜに売られていた。通りにはドリアンの異臭があふれ、川べりのすえた臭いと混ざり合い、思わず鼻と口を覆いたくなるほどだった。

アザーンの歌声を聴きたいばかりに、モスクに程近いゲストハウスにチェックインした。シングルで15リンギット(約480円)だった。おかしなもので、首都クアラルンプールを離れるに従って宿代は高くなっていた。

レセプションにいたのは高校生ぐらいのムスリムの少女だったが、まったく英語が通じず、頼みのマレー語でさえ独特の訛りがきつくて聞き取れなかった。言葉が通じないもどかしさをこの旅で初めて痛感した。

どうにかチェックインを済ませ、宿の近くに日用品を売る店があったのを思い出して中に入った。持参していた小さな鏡をチェラティンのテラスで落として割ってしまっていたからだ。コンタクトレンズを装ける時にどうしても必要なものだった。

けれど、ここでもまた店員のマレー語がさっぱり分からず、ぼくの発するマレー語もうまく通じなかった。いったい何語でコミュニケーションを取ればよいのか途方に暮れた。

冷静さを少し失いかけていたのだろう。通じないもどかしさがやがて苛立ちになり、気がつくと大声で言い直したりもした。こんな滑稽な旅行者なんていない。わけの分からない言葉で鏡が欲しいとわめく外国人なんて。

もちろんそれで物事が好転するわけではなかったし、ささくれ立った気持ちが収まるわけでもなかった。買い物ひとつでこれほど神経をすり減らしてしまったのは、他でもなくすべてぼくの幼さのせいだった。

トレンガヌ川のほとりに出て対岸に沈む夕陽を眺めた。結局いちばん心が落ち着くのはこういう瞬間なのだと思うとひどく寒々しい気持ちになった。膝を抱えながら風に吹かれ、煙草をふかし、ペットボトルの水を飲んではまたため息をついた。

いつだって夕陽ばかりを眺めて旅をしていた。そうやって自分の位置を確かめようとしていたのかもしれない。

結局ぼくはこの国を通り過ぎる人間でしかなかった。永遠の他者としてこのまま旅を続けるしかないのだ。それはこの異国の空に広がる琥珀色の光のように果てしなく空虚な諦めだった。

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