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遺書 / ブラスタギ(2)

2003/08/13

ブラスタギ二日目の朝。高原の街に降る雨は遠くの山々まで灰色のグラデーションで覆った。街そのものが深い霧の底に沈んでいるようだった。

この街に何か特別なものがあるわけではなかった。けれど、これまでのスマトラ島の街とは違う適度な無関心さが心地よかった。こうやって時々、こんな雨の降る場所で、ぼくはぼく自身に戻る必要があった。そのことをすでに経験から学んでいた。

雨のクラビで過ごした読書の日々を懐かしく思った。

旅に出てすでに四十五日が過ぎていた。薄汚れたドミトリーや食堂のテーブルで書き続けた文章も、間もなくノート二冊分が終わろうとしていた。

ほんの数ヶ月前までは、文章を書くことも、集中して長文を読むことさえもできなかった。うつ病の症状のひとつなのか、そういった行為を脳そのものが拒否した。すべてが混乱していたし、思考そのものがパニックに陥っていた。それを投薬で抑え、のっぺりとした気だるさの中で無為に横たわるしかなかった。

二冊の小さなノートをジーンズの後ろのポケットにねじ込み、雨で白く煙るブラスタギの街を歩いた。どんなかたちであれ、ようやく書けるようになった文章をどこかに残しておきたいと、そんな気持ちになっていた。

クアラトレンガヌでアドレス帳を紛失していたのも大きな理由だった。いつまたこのノートを失ってしまうかも分からない。それだけはどうしても避けたかった。

昨日と同じネットカフェに入り、日本語IMEをインストールしておいた例のパソコンに向かった。ホットメールを開き、メインで使っているニフティのアカウントにメールをしておけば、送信と受信で、同時にふたつのサーバーに残せることになる。この作戦でいこうと思った。

ノートに記した文章を一日ずつ打ち直し、多少の加筆修正をし、日付を表題にしてメールを送り続けた。四十五日分というのは予想以上に骨の折れる作業だった。時々、自分の文章の持つ独特のクセに嫌気が差したりもした。

途中、ネットカフェの受付の青年に声を掛け、食事に出ることを告げた。引き続き同じパソコンを使いたいと申し出ると、青年は静かに笑ってインドネシア語で言った。「お客さんいないから心配ないよ」

結局、夕暮れ近くまで同じ作業を続けた。旅はようやくマレーシアを抜け、舞台はバンコクに変わった。さまざまな思いを振り切り、南下したチュムポーンという街で別れたナダのことを書き終え、そこで今日は力尽きた。メールはすでに三十通に達していた。

やりきったという思いよりも、失う可能性を少しでも減らせた安心感の方が大きかった。すべてを送り終えたわけではなかったが、それでも気持ちは晴れやかなものになっていた。

心地良い疲労に包まれながら目を閉じると、打ち直すことで気付いたさまざまな言葉や眼差しがまぶたに浮かんだ。悲しみはどこまで行っても悲しみのままだった。苛立ちも苛立ちのままだった。不甲斐なさは不甲斐なさとして心に沈んだ。そして、喜びはいつでも喜びのままだった。

ぼくにはきっと、気の利いた辞世の句など詠めやしないだろう。非凡でも崇高でもない市井の民の人生ほど、単純な言葉で言い表すのは難しいものだった。どう転んでも、ぼくの夢が枯野をかけ廻るわけではなかった。

人生を終えるその瞬間に、もし何かを託せるのならば、ぼくはきっとこのだらだらと続く独り善がりな文章を選んでしまうだろうと思った。世の中にひとつぐらいこんな冗長な遺書があっても悪くないだろう。それがぼくの歩んだ人生なのだから。

そんな開き直りと図々しさに心の中で小さく笑った。ここに至るまで、いったい何人の手のひらがぼくの背中を押してくれたのだろうと思った。

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