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呼吸 / タンジュンブノア(1)

2003/09/06

空港から直接友人の泊まっているホテルへ電話を入れるつもりだったが、ここで大きな失態に気付いた。ホテル名と電話番号を控えた紙を紛失していた。

今夜、友人はどのあたりまで出る予定なのか、どこか行きたい店があるのか、待ち合わせは何時頃なら都合がいいのか。それによって今夜の滞在エリアと宿を決めればいいと考えていたが、フライト遅延とメモの紛失ですべてが真っ白になってしまった。

いつまでも空港で途方に暮れるわけにもいかなかった。目に付いたタクシーに飛び乗り、ひとまずヌサドゥア方面へ走ってもらうことにした。運転手と話をしつつ、これからの予定を慌てて組み直しながら。

ヌサドゥアはバリ島の中でも有数のリゾートホテルが立ち並ぶエリアだった。いくら南国のゆるいリゾートとはいえ、それなりにドレスコードだってあるだろう。小汚いリュックサックにサンダルにジーンズ、肩に担いだギター。とてもじゃないが、こんな恰好で立ち寄れる場所ではなかった。そもそもぼく自身そんな姿で出向きたくなかった。

運転手に事情を話し、近くにある安宿を教わることにした。シャワーを浴び、せめて無精髭だけでも剃っていこうと思った。もちろんギターなんて必要ない。ボロボロのTシャツではなく、襟付きのシャツが相応しいだろう。

ヌサドゥアの北に続くタンジュンブノアにならゲストハウスがあると運転手は教えてくれた。実際はどこでもよかったが、「日本人にも人気みたいだよ」という宿へ直行してもらうことにした。この長い移動をリセットできればそれでよかった。

宿の前にタクシーを待たせたまま、部屋の確認もそこそこにチェックインを済ませ、歩きながら衣服を脱いでシャワーを浴び、髭を剃り、身体を拭きながら着替えをした。数少ない選択肢の中から、一番シックだと思われる藍染めのシャツを選んだ。

小走りにタクシーへ戻って時計を見ると、ここまですべて、空港に降り立ってからわずか三十分の出来事だった。頑張り過ぎだ。信じられない。まるで時間に追われる日本人みたいじゃないか。

さて、とぼくは改めてこんなふうに問いかけた。「さて、運転手さん。ぼくはどこへ行けばよいのでしょう?」と。そんな言い方に運転手は声をあげて笑ってくれた。「ヌサドゥアだろ? んー、ホテルたくさんあるよ」

曖昧な記憶をかき集め、あやふやな単語をつなげたりほどいたりしながら、しばらく要領を得ないやりとりを続けた。

「あの、運転手さん、今から言う単語で何か気付いたら、何でもいいから言ってもらえますか?」

そんな断りを入れてから、ぼくは口からでまかせに思いついた単語を並べた。ファリア、バリア、バリラ、メディア、メディナ……。

「お兄ちゃん。それ、メリア・バリじゃないの?」

「そう?」

「そうそう、メリア・バリ。ヌサドゥアにあるよ」

「そこかなー」

「あははは、知らないよ。まあでも、行ってみる?」

「んー、ちょっと違う気がするんだけど……」

結果から言えばそこで正解だった。間違いなく友人はメリア・バリに泊まっていた。そして、間違いなく彼はすでに外出した後だった。

あまりに流暢な日本語を話すバリ人のフロント係は、二ミリぐらい眉をひそめ、申し訳なさそうにこんなことを言った。

「私の記憶をたどりますと、お客様は七時十五分ごろ、タクシーにて外出なさいました。ご夕食ではなかろうかと思われますが……」

友人と再会できなかったことよりも、目の前のバリ人の口から「私の記憶をたどりますと」なんて言葉が出てきたことにすっかり心を奪われてしまった。すごい。こんなこと日本人でも言わない。

勧められるままロビーでしばらく待つことにした。併設されたバーに行ってビンタンビールの小瓶を注文し、エントランスから聴こえるリンディック(竹ガムラン)の生演奏に身を委ねた。

気持ちがようやくバリ島に馴染んできたようだった。ここはスマトラ島ではなく南国のリゾートなのだ。ソファに座ったまま大きく伸びをし、運ばれてきたビールをひとくち飲んだ。思わず安堵のため息がこぼれた。

こうやってたどり着けたのはあの陽気なタクシー運転手のおかげだと思った。それと同時に、どうして空港のインターネット施設を思いつかなかったのかとうんざりした。友人のメールをもう一度開けばそれで済む話だったのだ。

長い移動の疲れもあり、心地良い竹ガムランの音色に包まれて身体の芯がふわふわした。すっかり汗をかいたビールグラスに、ロビーの柔らかな光が映っていた。世界がハチミツ色に染まっているみたいだった。

一時間ばかりそんなふうに過ごしたが、「すぐに戻ってくるわけがない」というのが、ビールを飲みながら導き出した結論だった。ぼくだったら絶対に夜中まで遊び回ってしまう。誰だってそうだろう。すぐには戻らない。

もう一度フロントへ出向き、友人の部屋番号とホテルの電話番号を改めて確認した。それから一言だけ簡単にメッセージを書き残し、ついでにトラベラーズチェックを両替し、タクシーを呼んでもらってタンジュンブノアの宿へ戻った。なんという一日だったのかと少しだけ首をかしげながら。

 *

宿の近くの屋台へ出かけてナシチャンプルと紅茶で簡単な夕食にした。夜風に吹かれ、相席した地元の青年たちとおしゃべりをし、何度か大声で笑い、手を振って別れた。バリ島だ、と改めて思った。

宿のテラスでまたビールを飲みながらギターを弾いた。山崎まさよしの『One more time, one more chance』。小さな声で、ひとつひとつの音を確かめるみたいに。

歌うのに疲れると、グラスに残ったビールをなめるように飲みながら目を閉じた。海辺を渡る潮風が遠くから聴こえた。椰子の葉擦れ、遠吠えをする犬たちの声、どこからか漏れるラジオの歌声。

そして、確かに聴こえるもうひとつの音。

六年前と同じだ。やっぱりあの音が聴こえる。幻聴ではない。その音は確かにそこにあって、ぼくの鼓膜を揺さぶっていた。

呼吸の音。それは地面の奥底から地鳴りのように響く、低い、くぐもった誰かの呼吸の音だった。同じだ。やっぱりぼくの耳には聴こえてしまう。

神々の島、バリ。

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