のんびりいこう / デンパサール
2003/09/06
スマトラ島パダンから一気にバリ島へ向かう。とはいえ、パダンとバリ島の間に直行の空路はなく、ジャカルタ、スラバヤの二都市を経由して、時差をひとつ飛び越える必要があった。
閑散としたパダン国際空港に人影は数えるほどしかなかった。長距離バスの待合室にでもありそうなベンチが間の抜けたくぼみを見せて並んでいた。リュックサックをクッション代わりにして片肘をつき、ぼんやりと搭乗のアナウンスを待った。
目を閉じると、ここでもまた、いくつかの場面が脳裏をかすめていった。言えなかった言葉、抱きとめられなかった温もり。そして今、ぼくはまた新たな場所へ向かおうとしていた。
売店へ行ってミネラルウォーターを買った。自然におはようという言葉がこぼれた。売り子の青年は頷きながらはにかんだ笑顔を浮かべた。
フライトが遅れている。
モニターに表示される発着情報は、2テンポぐらい遅れて最新のものに更新された。八時発だった便はいきなり十五分の遅れになった。どうだか、と半笑いになってため息をついた。きっと十五分で済むはずがないだろう。
ブキティンギを離れる前、パサール・アタスの古道具屋でアコースティックギターを買っていた。常々どこかのタイミングで楽器を買いたいと思っていたからだ。
「アメリカ製とインドネシア製、どっちにする?」古道具屋の店主はおかしそうに笑って言った。「音か……。音はまあ、あんまり変わらないんじゃないかな?」
示された二本のギターをそれぞれ手に取って試した。アメリカ製は普通に音が鳴った。間違いなくギターだった。
一方のインドネシア製はびっくりするぐらいに低音が軽かった。これはギターなのか。イコライザーで低音をカットしたような安っぽい音しか鳴らず、筐体はボール紙のようにやわなものだった。
「な? あんま変わらないだろ?」店主は笑いながら得意気にそう繰り返した。
「そうだね、どっちも弦が六本あるもんね」そんな出来の悪い冗談に店主はきちんと大笑いで応えてくれた。
「ギターはやっぱり弦が六本じゃないとな!」
「じゃあ、ここにあるギターは全部六本弦?」
「まあね、当たり前さ」
顔を見合わせてふたりで笑った。こんなやりとりをずっと続けていたいとさえ思った。
結局インドネシア製のギターに決めた。値段はアメリカ製の十分の一だった。わずか88,000ルピア(約1,100円)。本当に冗談みたいな値段だった。
手にしたギターをもう一度隅々まで調べた。大丈夫だ、弦はきちんと六本ある。ギターホールの中には製品名とロットナンバーが記されていて、「YAMMAHA SEN-SEN」と書かれた謎のシールが貼られていた。
「ヤマハ?」と思う。いや、違う。ヤムマハだ。「M」がひとつ多いのだ。
人の気配のないターミナルのベンチでヤムマハギターを弾いた。イーグルスの『デスペラード』をアルペジオで。壊れかけたラジカセから流れる擦り切れたテープみたいな音しか鳴らなかった。
でも、そんなカサカサの音色がこんな朝には似合っていた。今のぼくにはそれぐらいの軽さでちょうどよかった。
搭乗ゲートで最終手続きを済ませ、予想通り十五分、ではなく四十五分の遅れでジャカルタ行きの国内線に乗り込んだ。ボーイング737というマンダラ航空の旅客機は、実に小ぢんまりとした可愛らしいものだった。
エコノミークラスでチケットを買ったはずだったが、用意されたシートはビジネスクラスのものだった。
とはいえ、特にエコノミーと差があるわけではなかった。機内食も変わらないし、特別なサービスがあるわけでもなかった。シートの前後左右の間隔がほんの少し広めにとってあるだけだ。両足を伸ばすと、つま先がかろうじて前の座席に触れた。その程度の違いだった。
ジャカルタ、スカルノ・ハッタ国際空港へは午前十一時に到着した。次のスラバヤ経由バリ島行きは十三時四十五分発だ。三時間弱の余裕があったから、一度ジャカルタ市内へ出るのもいいかもしれないと思った。
けれど、六年前の記憶を思い出してすぐにやめた。ガンビル駅まで片道で四十五分もかかってしまう。これではきっと何もできないだろう。あきらめて壁際の床に腰を下ろし、ふたたびリュックサックをクッション代わりにして頬杖をついた。
結局、何事もスムーズに運ばないのがインドネシアだった。
ジャカルタでもまた、搭乗時間をいくら過ぎてもアナウンスが鳴らなかった。地上係員たちに目を向けても、何やら楽しそうに談笑しているだけだった。おそるおそる彼女たちに声をかけて事情を訊いた。
「整備が遅れてるんじゃない?」「パダンでも遅れたでしょ?」「実は私たちにもよく分からないの」
悪びれるわけでもなく、彼女たちはあっけらかんとそんな返事をした。まったく埒が明かない。そして、こんな応対に腹を立てる気持ちなどぼくにはなかった。むしろ、のんびり行きましょうと諭された気分だった。
結局、飛行機はほんの二時間ほどの遅れでジャカルタを出発した。たいしたことじゃない。だって、ほんの二時間なのだから。
スラバヤへは午後五時過ぎに到着し、乗客の入れ替えや機内清掃が行われた。ここでもまた若干の遅延が発生し、飛行機は改めてバリ島へと向かった。
最後のフライトはわずか三十分で済み、現地時刻の十九時半、晴れてデンパサールのングラ・ライ空港へ到着した。友人にメールで伝えていた時刻よりも、実に三時間近くも遅れていた。
たいしたことじゃない、とにかく無事に着いたじゃないか。友人の顔を思い浮かべながらそんなことを思った。そしてすぐに、ごめん、と心の中で呟いた。今夜、どうやら一緒にビールを飲めそうにないや、と。
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