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並走 / コタバル(2)

2003/07/16

彼女がセットしたアラームの音で目を覚ました。彼女は今日、国内線でクアラルンプールに戻ることになっていた。コタバルに滞在する日数はあらかじめ日本で決められたものだった。彼女がこの街にいられるのも残り数時間。

寝ぼけた耳に彼女のおはようが届く。ぼくも返事をしようとしたが、おはようなのか欠伸なのか分からない息がもれた。腕時計に目をやるとすでに七時を回っていた。

彼女が荷物を詰めている間にシャワーを浴びた。日に灼けた肩や背中に冷たい水が心地よかった。歯ブラシをくわえたまま部屋に戻ると、荷造りをほとんど終えた彼女がぼくにこう声を掛けた。

「バスタオル、ここに掛けておけば少しは乾くかな……」

ベッドの柵に視線をやり、彼女はタオルを広げて四辺をひとつひとつ伸ばすようにした。一晩中開け放された窓から鳥たちの鳴き声が細く聴こえた。

今朝はお互いに視線を合わせようとしなかった。それは昨日の夜二人で決めた結論のせいかもしれなかった。

七時五十分、宿のとなりの小さな食堂に席を取り、二人で食べる最後の食事をした。テーブルに置かれたナシ・レマッの包みを広げ、テ・タリッを頼み、言葉も交わさずに口を動かし続けた。

八時半に宿を出て空港バスのターミナルへ向かった。彼女のバックパックを代わりに背負い、いつの間にか二人で歩き慣れてしまった道を進んだ。

彼女と過ごした時間はわずか二日にも満たないものだった。ツーリスト・インフォメーションで見掛け、その数時間後に入った宿で再会した。

彼女とぼく以外に誰もいないドミトリーで寝起きをし、一緒に街へ出かけ、屋上にあがって飽きもせずに言葉を交わした。ぼくは彼女のことを少しずつ理解しはじめ、彼女もまた少しずつぼくについて理解しはじめていた。

昨夜もまた二人で屋上に昇り、奇蹟のように美しく輝く満月を眺めた。お互いに気づいてはいるが声にしてはいけない、言葉にしてはいけない種類の感情をあてもなく抱え、ふと言葉に詰まり、またその何かについて感じ続けては迷っていた。

気持ちのどこかに、それを何か形のある行為なり言葉なりに変えてしまうことは間違ったことだという思いがあった。そして彼女の中にも同じ思いがあることをぼくは感じ取っていた。

会話はいつの間にか回り道を繰り返し、どうしても言葉にできない想いに突き当たってため息に消えた。もうずっとそんなことを繰り返していた。やっとの思いでぼくらが下すことのできた結論はこういうものだった。「このままお互いの連絡先を教えずに明日を迎えましょう」と。

彼女のバックパックの重みを感じながらバスターミナルを目指した。彼女は時おり何かを言いかけたが、上手く言葉にならず、代わりに小さなため息をこぼした。朝もまだ早い時間だったが、熱帯の陽射しはくっきりと街の形を切り抜き、地面に濃い影を落としていた。

空港でもあまり会話らしい会話は無かった。お互いに何かを言いかけてはふと迷い、すぐに自分自身でけりをつけてしまう、そんな沈黙の中にいた。空港内のカフェで温かい紅茶を飲んだ時も、向かい合うようには座らず、カウンター席で隣り合わせになって黙々と甘い液体を胃に収めた。

離陸する四十五分前に彼女は席を立った。何かを言った気もしたが、それはもう上手く言葉にならなかった。ぼくの隣を離れ、彼女は振り返らずにまっすぐ搭乗口へ向かった。

一瞬だけ立ち止まると、彼女は振り返って小さな声でありがとうと言った。そしてまた歩き出し、左の通路へ曲がる寸前でもういちど小さな笑顔を見せた。その仕草のまま、彼女はぼくの視界から消えた。正面に向き直る彼女の横顔が見えた気がしたが、それが最後だった。

空港から市内へ戻るバスが動き始めたのと、彼女の乗った飛行機が滑走を始めたのはほぼ同じ時刻だった。飛行機と並走するように、バスは滑走路のフェンスの脇を西へ向けて進んだ。

シートに身を沈め、薄汚れた窓から離陸を見つめた。飛行機はすぐにバスを追い越し、視線の先で、轟音を響かせながら浮き上がる機体の姿が揺れた。

バスは南へ向けて左折した。反対側の空の向こうに、遠去かっていく銀色の翼が見えた。しばらくその姿を目で追っていたが、急に息苦しさを覚えて目を反らした。

昨日の夜ぼくらが選んだのは失うことの方だった。失うことを選んだんだ。そう何度も自分に言い聞かせた。得ることではなく、ぼくらは失うことを選んだんだ。

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