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胸の壁 / クルアン

2003/07/05

旅の疲れが出たのかもしれない。

マレー半島の東海岸、メルシンという街へ向かう長距離バスに乗った。十二時四十五分発だった。出発してまもなく深い眠りに落ちた。小刻みなバスの揺れが心地好かった。頬に当たる陽射しが誰かの温もりに似ていた。

気がつくとバスは大きなバスターミナルに停まっていた。車内に運転手の姿は見当たらず、乗客も誰ひとり残っていなかった。

何の疑問も抱かずにバスを降りて街を歩いた。通行人に何度かツーリスト・インフォメーションの場所を訊ねたが、知らない、聞いたことがない、というのが大方の答えだった。目についた屋台で野菜サンドを買い、水を飲み、煙草を吸い、古ぼけた雑居ビルの影に腰を下ろした。

街はどことなくよそよそしく、通りを歩く人々の眼差しには奇妙な暗さがあった。舗道の外れには崩れかけたベンチが並び、その向こうには投げやりな街路樹が続くばかりだった。

不意に視線を投げた向かいのベンチでひとりの少女が泣いていた。煤けた服を纏い、髪は捩れて固まり、泥だらけの足にサンダルはなかった。喧騒の隙間を縫うように、彼女のすすり泣きは直接ぼくの内側から聴こえてくるようだった。

立ち上がろうと思った。そうすべきだと思った。けれど、どうしても立ち上がることができなかった。

目の前の国道をひっきりなしに車が過ぎていった。壁にもたれ、そんな光景を睨むように見つめた。みんなどこかへ行こうとしている。ここではなく、どこか別の場所へ。

交差点の手前に掲げられた大きな緑看板を見上げた。主要都市までの方角が文字と矢印で示されていた。マラッカ、セガマッ、アイル・ヒタム。メルシンへはこの大通りを左に進めばいいらしい。そうか、メルシンへは……。

頭から水を浴びせられた気分だった。「どうしてメルシンにいてメルシン行きの表示があるんだ?」

慌てて立ち上がり、バスターミナルの窓口へ戻って街の名を訊ねた。カウンターに居た女性が口にしたのはメルシンではなかった。ここはクルアンという街だった。

マラッカで買ったチケットを見ると、確かにクルアンを経由する旨が小さく書かれていた。間違えて途中下車をしたことになる。カウンターの女性にメルシンまでのチケットを見せ、この愚かな過ちを伝え、既に料金を支払っている事実を訴えた。彼女は露骨に呆れた顔を見せたが、このチケットで次のメルシン行きのバスに乗っていいと言ってくれた。新たにチケットを買う必要はない、と。

けれど、礼を言った後で聞かされたのは、次のメルシン行きのバスが二十一時発ということだった。時計を見るとまだ十六時半にもなっていなかった。全身の力が抜ける気がした。この場所であと四時間以上も何をしろと言うのだ。

チケットカウンターを離れ、目に付いた道端にしゃがみ込んだ。肌にまとわりつく熱気も誰かの話し声も、どこからか聴こえる浮ついた英語の歌も何もかもが疎ましかった。帽子を目深にかぶり、誰とも目を合わせまいと地面に視線を落とした。鼓動がいつになく速く胸の壁を打つのが分かった。

紙屑の散らばった舗道の縁に、どこからかトンボが飛んできて止まった。祈るように両手を口の前で合わせ、目を細め、薄いトンボの羽根をじっと見つめた。蒸すような熱気が全身を包み、頬を伝う汗が雫になってあごの先からポトリと落ちた。

目を閉じて大きく息を吐いた。あと四時間もここで何をしろと言うのだ。

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