熱帯の夜の底 / クアラルンプール(1)
2003/06/29
幾つもの通りが重なる立体交差のたもとで大きく息を吐いた。天を切り裂く無数のクラクション、排気ガスの匂い、ねっとりと肌に絡みつく南国の夜気。重い荷物を背負ったまま、ぼくはこの熱帯の夜の底をすでに一時間以上さまよっていた。
舗道に目をやると、頬の痩けた老人がゴミ箱の脇に座って宙を見つめていた。その背後を自動車やバイクが光の束になって走り去っていく。遠ざかる残光はまぶたの裏で縺れる光の糸のようだった。
「こんな所で何してんだろ……」
もう何度目か分からないぐらいにそう思った。ぼくはここでいったい何をしているのだろう。とにかく宿を決めなくてはならなかった。今夜の寝床を確保し、不快な汗を一気に洗い流したかった。
頭ではそう分かっているのに気持ちを具体的な動作に結びつけることができなかった。こうして息をしている事実だけが、なぜか今、ひとつの宣告のように胸に突き刺さっていた。
舗道の老人は白い開襟シャツの胸ポケットから煙草を取り出し、強いビル風に邪魔されながらマッチの火をともした。一瞬の炎を両手で包み込むようにして。
淡いオレンジ色の光が老人の顔を照らし、深い溜息のような紫煙が湿った熱気に溶けていった。
ここから旅が始まる。それは間違いのないことだった。もう歩き出してしまった。振り返るわけにはいかない。けれど今ぼくの前に広がっているのは誰かの肌に馴染んだ街の姿だった。
クアラルンプール。
ここにぼくの居場所はない。ほんのつかのまこの街で寝起きし、言葉を交わし、そっと立ち去るだけだ。きっともうこの街に戻ることはないのだろう。「別れるために出会う」というあの冷たい思想が真実であるのなら。
信号が赤に変わり、舗道の向こう側にたくさんの人間が集まり始めた。肌の色も服装も年齢もさまざまな人たち。彼らはみな信号が変わるのを待ち構え、通りへ溢れ出す瞬間を狙っていた。
巨大なコンテナ車が爆音のクラクションを鳴らして通り過ぎていった。信号を待つ人たちの群れが激しい細胞分裂の加速度で膨らんでいく。
ぼく自身もまた、誰かにとってのこんな景色の中にある小さな染みのような存在なのだと思った。
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