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信頼って何?

 俺は人に頼られたことがない。口数は少ないし、面と向かって真面目な意見を言うことはほとんどない。だから信頼に足る情報がないから信頼されないのは仕方ないと言えば仕方ない。相手からしたら俺のことを分からないのだから信頼しようがない。

 もっと気楽にたくさん話せたらなと子供の頃は思っていたし、成長してからもそう思っていた。もしそうなったら少しは変わったかもしれない。何で口数少なくなったんだろうと振り返ることは何度かあった。自問自答してたどり着く答えは、言ったら嫌われることがまず思い浮かぶからだ。

 仲のいい友達が有名人のオンラインサロンに入ったと言って自慢げに話しかけて来て、どこが面白いの?ただの拝金主義じゃんとは言えなかったし、ある映画を観て面白かったと言う女の子に全然面白くないとは言ってないし、流行りの曲にかっこいいと思ったことは一度もない。カラオケに行っても知らない曲ばかり聞かされて歌いたくない歌を歌った。思った通りのことを聞いたら「なぜ一緒にいるの?」となって関係そのものを否定することになりかねない。

 意見が合わなかったり、嫌いなところが少しあっても一緒にいるというのは両親を見てきてあまり好ましくない関係のあり方だと思っていた。そうした関係もありかも知れないと今は思っているが、中々うまくいかない。嫌だが社交的な振る舞いをうまく覚えてしたくないことをして孤独を避けることが多くなって本心は何なのか不確かになりそうになって黙って頷くか笑ってやり過ごすことが多い。単に空気を読んでいたのとも違う気がする。何となく明文化されないルールに臆していたんじゃないかと思う。

 ぼんやりとおぼろげだが小学校低学年の頃の記憶が頭をよぎることがある。担任が席についたクラスの生徒達を前にして俺の話題をして、俺が泣いている記憶だ。微かにしか思い出せないが発端は友達とのケンカで担任が仲裁し、生徒達の前で解決させようとしたのだと思う。だが、その発端が俺にとっては恥ずかしい内容だった。ある日、遊ぶ約束があってその友達がやって来て、俺の家のトイレに明かりがついているのを見たらしい。それをふざけて教室で「あの時うんこしてただろ」とか何とか言ったのだ。それにキレた俺が殴りかかったのだろう。教師は俺に何で怒ったのかを聞いて生徒達の前で順を追って説明させ、話し合いで解決させようとしたのだと思う。今だったら笑い話になるような話だが、その時は泣いて嫌がるくらい自分がうんこしていたことを言うのは恥ずかしかった。その頃から学校は嫌になったし、教師だけでなく笑っている同級生への不信感は高まった。

 何が侮辱に値するかなんて誰も考えていなかった。単純にケンカは話し合いで解決する方が良いと言う考えに基づいて教師が行動したに過ぎない。もはや自動化した機械だ。無論彼らは仕事でやっている。だから誰が機械のプログラミングをしたかが問題だが、それを壊す事は教師に歯向かう事では達成されない。俺の周りにあったのは誰が敷いたかわからない自動化したルールと矛先を間違えた反動ばかりだった。それにしても泣いていた俺に慰めの声をかけない選択がありうるのは躾として傷ついた分学習すると言う別のルールがあったからだろう。

 そもそも子供の頃から嫌なことが多かった。学校内での同級生同士のじゃれあいや放課後の遊び、授業そのもの、休憩時間のちょっとしたスポーツなどなど。夢中に慣れたのは漫画やファミコン、漫画の模写だった。友達と探検ごっこをしたり、自転車で滑り台を逆走したり、勝ち目のないアーケードのストⅡをたまにやったり、KOF’94がうまい先輩のプレイを覗き見たりするのもつまらなくはないが積極的にやりたいこととは思っていなかった。ただ、友達と友達でいるために彼らが好きなことに付き合っていると言う気持ちが強かった。ある種の生存戦略のように孤立を免れるために徒党に加わっていた。そこには誰にも聞かされなかったルールがあるようで、こもって一人で過ごしたかったが、俺と似たような趣味を持つ男は例外なくいじめの対象になっていた。生徒達の前で泣き顔を晒し、誰にも守られない同級生がいた。いつも邪険に扱われていた。あからさまに同情を見せたら、俺も標的にされかねないし、何か言ったところで周りに俺の言葉が無視されるのは必定だったろう。だが、泣き顔を晒しているのも弱すぎだろと思った。もしかしたら、俺も家にこもって本を読んでゲームばかりしているとうじうじした人間になってしまうのではとの危機感を持っていた。だから、活発に外の世界と交流しようとする同級生、クラスの中で弱虫を守らなかった傍観者の同級生、それからうじうじしたように見える弱虫の同級生とも距離があった。俺は誰の立場にも共感できなかった。

 ルールには従うが常に守りたいとは思っていないし、罰を受けるのも嫌だった。だからある意味空っぽな感覚を子供の頃から感じていた。どっちつかずに曖昧な言葉の返答ばかりしていたと思う。今もそういうところはあるかも知れない。だが、そういう時は当の話題にそもそも興味がないか、質問そのものをしようとした根本的な考えを否定したくなる時だ。そこから議論に持ち込みたいと思ったらそうすればいいが、子供の頃は議論はなくケンカが始まり、威勢と腕力だけで勝負は決まってしまう。俺はそのどっちつかずのせいで小4か小5の時、知的障害者の女子への身体的暴力を伴ったいじめに手を貸してしまったことがある。これは学校で問題となり保護者の耳にすぐに入った。クラスの中で誰も止められなかったことで全員反省文を書いたような気もする。いじめは目の前ですでに起きていて俺のそばにやって来た時に俺も手を出してしまったのだ。本当は何もしたくなかったが、止めることよりも加害者側への同調を優先してしまったことを深く後悔した。きっぱりと関係を断つほどの精神的な強さはないし、1年間同じクラスにいるというだけでもとても長く感じるのだから同調しないという選択はとても難しかった。だが、その件に関して後悔しているのは俺だけのように思えてならなかったのはその後もいじめの標的が変わっただけでまた起こっていたからだ。先ほど出て来た弱虫男へのいじめはまだ続いていたし、他のクラスでもあったと思う。俺の近辺では小柄な愛嬌のある同級生の男はよくちょっかいを出されていたし、その流れで強く殴られることが頻繁にあった。手を出したくないと思っていた俺も流れでやっていた。後悔のほどが知れるが、やり返されてもいたのでやり返されるとムカムカして来て殴りかえすと言ういじめの当事者だった。その頃は小6だったのだが、先のいじめに比べてそんなには嫌々でやっていることはなかった。幼馴染みの男と一緒にいたことで調子に乗ってやっていた。だが、その幼馴染みが教室でその小柄な男を突き飛ばした拍子に腰ぐらいの高さの物置に頭をぶつけて血だらけになって倒れ、何針もぬう大怪我を負って以来、その子へのいじめは少しずつ緩くなっていった。ほとんどいじめを止める奴はいなかったし、守る人はいなかった。ちなみにその幼馴染みの男の父はDV夫で母は幼馴染みのことを弟と比べて失敗作と言っていたらしい。

 暴力はどこにでもあった。小学校には暴力を暴力で制する教師がいたし、街中には突然殴りかかったり、ボールを奪う知的障害者の大柄な年上の男がうろついていた。他校の生徒とケンカした話が話題になったり、どこどこで警棒を手に入れたとか手錠を買っただとか噂話を聞くのは珍しくなかった。そんな中でも稀な存在はいた。学年が少し上の徳くんは違った。同級生共々遊んでいた時に徳くんに会うと、俺にぼー君とあだ名を付けた。その当時流行っていたクレヨンしんちゃんに出てくるキャラクターだ。いつも鼻水を垂らしてぼーっとしているキャラクターだからぼー君。ただただ、金魚の糞みたいについて行ってぼーっとしているように見えたんだろう。実際に金魚のフンと別の嫌いな同級生に言われたことさえある。徳くんは力強さだけではなくて、包容力や優しさのある頼れる先輩だった。ちょっとしか話したことがなかったのになぜかそう感じた。特徴のない俺にあだ名をつけてくれた事が嬉しかっただけかも知れない。社交的で力強くて人に頼られる存在のイメージとして今でも頭にこべりついて離れない。どんな人間かは本当のところわからないのだが。

 中学では部活動が盛んになることや女子と付き合い始める人間が出て来たり、進学のために勉強をする人間と暴走族やチンピラのような人間に別れたため、いじめは多少は薄らいでいった。だが、俺のどっちつかずの態度は全然変わらなかった。Sophiaのゴキゲン鳥が流行っている頃だった。MVがテレビに流れた時、これは俺のことだと思った。今歌詞を読むとそんな子供にわかる内容ではないのだが、その時は「ご機嫌とり」という意味に自分の振る舞いを重ねた。3人家族で両親と暮らしていたが父は寡黙でテレビに向かって文句を言って俺や母のすることにあまり興味のない人で母は仕事の愚痴を父に聞いて欲しい一心で、家にいても興味を持たれなかった俺は家の中でも両親に「ご機嫌とり」をしているし、教室でも「ご機嫌とり」をしていた。その時の状態をよく表しているエピソードとして、ある時二人の友達と同じ日に約束をしてバッティングしたことがあった。約束を破った方から嫌われて、信頼を取り戻すことはとても難しかった。孤独になりきれるほどには友人たちとの間を割り切って考えることはできていなかった。そんなこともあって今度は俺がいじめにあう番になった。夏に同じ部活の同級生たちとプールに行った時、鬼ごっこ的なゲームをしてちょっとした仲間はずれになった。俺はそれが悔しくて頭に来て友達の頭を殴りまくった。部活で体を鍛えていたこともあり腕力にはそれなりに自信があったので、やられたらやり返していたが屈辱には変わらなかった。相手は頭にでかいたんこぶが出来たそうだ。顧問に仲裁に入られたがもうそろそろ受験勉強に集中する頃合いでそれ以降はその友人と話す機会がなくなった。そんなようなことが別の友人との間で教室でも幾度かあって今思うと冗談を冗談と受け取れないほどに俺がプライドが高かったこともあるのかも知れない。だが、いじめはいじめだろう。

 高校では少なくともこれまでのような事は繰り返すまいとやりたいようにやるようにした。集団ではないが同じ人間に頻繁に暴言を吐いたり殴ったりしていたやつを止めたが、殴られているやつから「ふざけてるだけだから、やめろ」と言われてめちゃくちゃ萎えた。少しは感謝して欲しい気持ちはあったが俺のしていることが理解されていないようでショックだった。良い子ぶるように見えたのだろうか。同情されることを嫌がるほどまでに歪んでいたやつなんだなと納得しているが解せない。そもそも良い子ぶるって何なんだろう。クラスには30人以上いる。それぞれが思い思いに行動できるはずなんだから止める人間がいたって良い。何もしないのはやられている方にとっては肯定しているのと同じだ。それに殴っているやつに同調する奴は何人か常にいる。そう言う意味でクラス中がいじめを肯定しているようなものだ。加害者と被害者の当事者同士で全てカタがつくならそれで良いがそれはほとんど無理だ。止める理由は何だって良いだろう。そもそも、圧倒的多数の傍観者が動き出せばいじめはすぐに止められる。同級生の間で行動として野蛮な振る舞いがやりやすく理知的な行動がやりにくいのは受験勉強中心の教育への拒否反応や大人の求めることをしたくないと言う意味での敵対心なのだろうか。どちらにしろ対象が同級生というのが間違っている。文句があるなら大人に言えば良い。要するに大人である父や母に文句が言えない人間が同級生や教師に八つ当たりしているようなものだ。不毛すぎる。教室にいる人間は既に父や母や知らないおじさんやおばさんや誰かの被害者で被害者同士で傷つけあっているのかもしれないのだから。自分を突き動かすものが何なのか、もしくは他者が何に突き動かされているのか内省的かつ批判的に考えられる人間しか信用できなくなっていった。

 俺はちょっと前に両親が小学校にいるならどんな人物だったろうと考えたことがある。父は寡黙な映画オタク、母はアートサブカルオタク。何だ、オタク同士が結婚して生まれたのが俺かと思うと妙に今の自分のあり方に納得してしまう。教室の片隅で人気者批判しているのが社会批判に変わっただけかと。その線で行くといじめっ子は多分大人になったらその強引さでビジネスや文化、学問様々な分野で活躍するに違いない。ずっと肯定的に扱われてきたのだし。いじめが大好きだった某有名ミュージシャンや恩師をリンチしたことを自伝で語る大手新聞社の社長がいるくらいだ。逆にやられた側はずっと潜り続けるかもしれない。圧倒的多数に否定されているわけだから。何らかの経済活動や文化的な繁栄、流行、政治的な運動の面で言えば多くの問題は教室で傍観者だった人間の振る舞いに握られていると言って良いと思う。だが彼らは行動しないだろう。今まで強引だったいじめっ子を止める事ができなかったのだし、既に傷ついている人か考えることを止め、理知的な振る舞いをやめた人間なのだから。最近は駅の改札へ向かうエスカレーターで長蛇の列ができている中しゃがみこんでいる女性がいて、誰も声をかけないので「大丈夫ですか?誰か呼びましょうか?」と声をかけたが「大丈夫です」と言われ、俺はそれ以上何もできなかったのだが、何か解せない。長蛇の列に並んでいるやつら全員冷血人間かよ!それとしゃがんでる女は病んでるんだろうな。でも事情くらい言えるようになれ!

 30半ばを過ぎた。自分の根本の部分は幼少期に決まってしまったように思う。ほんの十数年のことだ。それ以上の経験を重ねている分、気が楽になっている面はあるが、人を信頼する事はとても難しい。ほとんど諦めている。だからあまり話さないし、だから信頼されない。ただ、そうしていると何も変えられないと思っているかのように黙って動かないまま硬直していた傍観者になってしまいそうで怖い。今まで道端で、会社で誰かが人を助けたところを見たことがない。風邪を引いたら休めと言うが苦しそうにしている人を気遣うことはない。悩んでいる人に声をかけたり、ひどいクレーマーと店員の間に入ったりした人間は見たことがない。俺の身に降りかかったら考えるがそれ以外はちょっと徳くんのことを思い出すくらいだ。理想化された男らしさの象徴のようになってしまった。でも悪くはない。彼らは決められたルーティンを守っている。だから守れない人に文句を言うのだろう。だがルールは誰が敷いたか、適正かは考えない。だから怠けられないし、怠けることを許せない。ルールを厳守させるなら例外的な人間を守れない。そんな人間を信頼できない。人間なんて曖昧で例外性ばかりの存在なはずだ。

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