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心霊写真について考えたこと

もしかしたら、既にテレビ番組のコメンテーターがどこかで言ってるような内容かもしれないが、思いついてしまったのでここで吐き出しておきたい。

写真は光を反射させてフィルムや記録媒体に焼き付けた物だ。だから、光を反射させる物体しか写らない。煙は写るが、空気に含まれる窒素や酸素は写らない。それは人間の視覚でも同じだ。粒子が細かく密度の低いものは見えないし、だからこそ写らない。そのことを前提とするなら写真に写った幽霊は物体になってしまう。しかもそれなりに粒子が大きく、密度が高い。幽霊の存在を疑わない人なら、「心霊写真は嘘です。幽霊は写りません」と言ってくれた方が腑に落ちる。「いや、写る。撮る人に見て欲しいから姿を現した」というなら、幽霊は存在形態を巧みに変えられる人間を超越した存在だ。意志があり、言葉を交わさずとも人物像を読み解き、存在形態を変えられる。これはこの世の生き物すべてをも超越した条件だ。死してこの世を超越するという考えは死後の世界に天国や地獄を見るのと大して変わらない。どんなにリアルな伝え方や捉え方がされていても行き着くところはこの世から逃げられる場所があると信じたい人によるファンタジーになってしまう。この辺に「寓話」の入り込む隙がある。存在を抽象化し、可視化できるはずのものを剥ぎ取り、無きものとして扱う。

 フィクションとしての「寓話」は面白いものが多い。映画なら狩人の夜、霧の中の風景、カリスマ、ヘルプレス、ミークスカットオフなどなど、古今東西たくさんある。寓話的表現を作る際の思考には「あってはならないもの」が立ち現れる。そこにあるがこの作品にあってはならないもの。端的に言えば世界を作るためのルールだ。この制作上課せられる排除はとても政治的だ。表現が豊かでとても創造的なようで、それに反するようにとても整理された空間を創る。制作に関する倫理的な側面で意味のない存在、意図的でない存在の忌避には違和感を覚えることがある。寓話的表現には見たい世界しか見ないという欲望の裏返しにある世界への嫌悪を感じるからだ。それは寓話の中に隠喩や比喩がある点で織込み済みではあるはずだが、寓話である以上、嫌悪を嫌悪としては表現しないだろう。そこには「これでわかるよね」という同時代性を土台にした共通認識に頼る節がある。都合よく「わかる人にはわかる」と語られるかもしれないが、文脈を作品外に依存する意味では軟弱だ。また、嫌悪を共通認識に持ち込むことに昨今のマイノリティに対しての対応で広く知らしめられた視点と繋がる部分が認められなくもない。それは「嫌悪の対象だから語らない」という存在そのものへの否定的な視点だ。時代が移り変わり、同時代性がなくなると何を嫌悪していたのかについても不明確になる。それは存在の否定をなおも実行する。そもそも、おしとやかさや言わずに察するような日本の古い美徳が嫌いだが、そのような振る舞いは神に対する信者と近いものがある。信者は常に答えが得られないためにずっと神の言葉について解釈論議をし続ける。昔いた遁世的な人のちょっとした思いつきから始まったかもしれないのに。それはそれで混沌としているが、その時の情勢についても伝えられていれば、信仰心や議論は落ち着いたものになったかもしれない。

 要は不意の出来事、不確かな存在、不可解な事実があることがリアルなのだが、フィクションの論理より現実の論理へ比重をかけても野暮なことになる。だが、そのフィクションの論理を裏打ちする思考そのものも野暮なリアルに基づく可能性があり、人を政治的かつ感情的に動かすのもこの点だ。横山茂雄の「何かが空を飛んでいる」でも紹介されたように幽霊や宇宙人に襲われたと証言する人の多くが人種差別主義者や性差別主義者であるようにフィクショナルな表現を突き動かすものに政治性と感情が含まれ得る。ラヴクラフトの想像力も同様だ。人間が人間のために創るのだから逃れられないのかも知れないが。

 偶発的な何かや意図しないものが入り込むことは心霊写真の要件に入るだろうが、幽霊という存在が一人歩きして写真が撮れることの論理が外れてしまっている。怖いと思いながらもあるといい世界の入り口になっているのが不思議だ。望む世界の論理を体現していながら嫌悪も表象している点で寓意に富む存在としてこれからもあることないこと語られるのだろう。

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