回帰する核家族の未来 4.1 自然化された家族の意義
より続く)
近代資本主義と失った相互扶助
絶対核家族や平等主義核家族が近代資本主義の勃興とともに生まれ、同時に極めて厳しい境遇に置かれるという逆説は、たんに企業城下町やロッヂデール生活協同組合運動、福祉国家による保険保障制度のような消費過程に限定的な相互扶助のための制度構築で解決できない。絶対核家族や平等主義核家族が親族ネットワークとともに失ったのは、生活のもっと広域にわたる相互扶助に寄与できるネットワークだからである。
これまで見てきたように、直系家族や共同体家族などの大家族においては、家族の構成員による相互扶助は、掃除や食事の準備をはじめとした家事、育児、高齢者のケアなど、生産に携わらないという意味での消費過程においてだけ役立ったわけではない。それは何よりも軍事集団として有力だったし、企業、つまり経済集団として生産過程に寄与した点を忘れてはならない。日本でも「家」は江戸時代には、家長を筆頭に商社として活動していた例が多くあったし、農家では当然のように両親と、長男夫婦、その子供たちが共同して働いていた。
ただ注意すべきなのは、そうであればこそ近代資本主義の発展にとって、こうした直系家族や共同体家族の形態とそのイデオロギーは障害になった、という点だ。こうした大家族は、地方の農村における半プロレタリア世帯として、資本制企業の資本蓄積に一時的に寄与したにすぎない。資本制企業が大規模化し、半プロレタリアのごときパート労働者ばかりではなく、フルタイムの労働者、つまり完全なプロレタリアを必要とする段階に達すると、こうした大家族はかえって邪魔になったのだ。
資本制企業が必要としているのは、家長に従う中途半端な労働者ではなく、上司に従うしかないプロレタリア、つまり自由な労働者であり、自由と独立のイデオロギーだったのである。
「生産は企業において、消費は家庭において」
それゆえ、少なくとも都市部において絶対核家族や平等主義核家族が輩出する労働者は、資本制企業にとって最も都合が良かったに違いない。この理念モデルは、結果として「生産は企業において、消費は家庭において」という分業体制をもたらした。
そして、この生産と消費の分離こそが資本制企業の理念となった。だが、厳密に言えば、それは分離ではない。外に出て働くことを生産過程と呼び、それ以外の仕事を排除して消費過程としたのだ。現代においても「職場に家庭を持ち込むな」と叱る上司がいたり、「家族に仕事の心配をさせたくない」と誓う会社員が後を絶たないのは、この排除が理念であり、勤労道徳として通用しているためである。
相互扶助は消費過程のみにとどまって良いのか?
したがって、「近接居住による核家族」や「一時的同居を伴う核家族」をはじめとした非定型のアルカイックな核家族がかつて大きな役割を果たしていたことも、同様に考えなければならない。これらの家族形態に伴う親族ネットワークの相互扶助の基盤は、育児をはじめとした家事を分担することにだけ役立っていたわけではなく、新たな農場の開墾や集団で行う狩りなど生産過程にも寄与していたことを忘れるべきではない。現代において、こうした非定型の多様な家族形態が回帰していると言っても、その相互扶助が消費過程にのみ留まるものであるならば、早晩行き詰まるだろう。
たとえば、現代の日本において若い夫婦があえて両親の近隣に独立して住む「近居」という家族形態も、それが育児など面における両親の助力を期待するのに留まるならば、自ずとそれが限界となる。だが、こうした共働きの夫婦が育児の負荷軽減をお互いの生産過程に活かすなら、世帯収入は上がり、より質の高い生活を送ることが可能になる。イクメンも同じだ。たんに育児の分担を変えるに留まるならば、それは若い父親を過酷な状況に追い込むにすぎない。
(続く)
筆・田辺龍二郎
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