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耳を貸さない文章、一方的に進め。

真意が見えない自分宛に送られた文章が怖い。
文章によるコミュニケーションは、大抵は質問だったり雑談だったりで目的は明確でいて若ければ若いほど分かりやすいものが多い。
それが大人になるにつれて、意図が分からない物が増える。これが非常に苦手。
これは良くも悪くも人の悪意を感じる事ができるようになったからだと思う。

20文字以内の文章に殺意が込められていたり。
10文字前後の文章に愛情が隠れていたり。


先日、ある文章が届いた。

ある事象の原因と考察、さらにその後の展開をSNSで発信した所、知人からその感想が個人的にLINEで届いた。
その方へ発信した物ではなかったけれど、取り方によってはその方へのヘイトに見えなくもない。
でも決してヘイト的な文脈にはしなかった為、その方も決して「批判でLINEした訳ではないよ」という思惑が文面から見て取れる。

この時は何と返すのが正解なのか、非常に困った。
時間をかけ思考を練った結果、本当に浅い返答をした。相手が何を思い何が言いたくてわざわざ個人的に連絡してきたのか。
怒りなのか悲しみなのか、一周回って喜びなのか全く検討も付かない。検討も付かないので浅い返信しか出来ない。

3往復ほどして相手が痺れをきらし、本音を漏らした。
正直、この時は感情論争に勝ったと思った。知人は私から本音を聞き出そうとしたはずだ。結果、それは叶わなかったし私も本音は絶対に出さない。

年を重ねていくと言葉の駆け引きのような物に引っ張られて本音がどんどん後ろへ下がっていく気配がする。
相手が何を言いたいのかを探る、ただし自分は話さない。これをお互いにやるもんだからコミュニケーションは難しくなっていく。

人は一部の信頼がおける人間にしか本音を話さない。
ましてやSNSなんかは虚像の人物として楽しんでいる。
いつかひろゆき氏が放った「嘘を嘘であると見抜けない者はWebコンテンツを扱うのは難しい」とはまさにそうで、私は事実を語る事をしない。

このSNS上での発言は他人の意図しない感情を招いたようだったけど、もちろん他意はないしそこまで貴方の事を考えて生きている訳ではないよと言いかけたがここは言わないのが品格だ。

一方的に何かを書く事よりは人との文章でのコミュニケーションの方が割と得意ではあるので、これからも盛大に他意がない事をそれっぽく個人に宛てたような作り方をして人を刺激していきたいと思う。
真意が見えない文章を受け取るのは苦手だけど、それだけ人を揺さぶる事ができるのを身を持って知っている。


「コピーライターになって博報堂の第3企画室でセックスがしたい人生だった。」

誰かを指してるかのような、けれど実在するかは分からない絶妙なラインでそれなりの物が出来たと思う。
会心の出来だ。知人に送りつけた所返事はまだない。おそらくスルーだなこれは。


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