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救いたい事の烏滸がましさ

「心配してるよ」

「大丈夫?」

「救えるのなら手伝いたい」

背筋が凍る。分かってる、この中には善意のみで発せられた言葉も少なからず存在している事を。

ただ、お前は他人の人生を心配する程の余裕があるのかと、私を救えるほどの力量があるのかと切に問う。

もちろんこちらから助けて欲しい、力になって欲しいとお願いする事はあるしされる事も然り。それとはまた別の力添えの「提案」を私は非常に毛嫌いしている。


心配される事は恥ずべき事だと思う。私は私の人生を私の責任で乗り切るつもりだし、関わっていく人も全て大人だ。関わってくる以上はその全ての言動に責任を持つべきで私を責める権利などどこにもない。


私の行動に意見するなと思うし、人の行動に直接的に何かを言うつもりはない。なかなかどうして香ばしくていらっしゃると思う事も多々あるけども、それはそれで面白いので黙って見てるに限る。

黙って見てるとより面白い方向にいくのも事実で、誰か止めてやれよと思う反面このまま突っ走って地獄に落ちていく所まで見たいと葛藤の日々。


自分も他人の人生もある種のRPG感覚で見ている。リセットは効かないけど途中からやり直しはできる。

やり直ししようとした瞬間からの人の人生は見逃せない。こんなに面白くなっていく物語は他にない。頼むから人の人生に介入するなと手助けしたいマンには声を上げたい。

助けようかという「提案」は私は何か別の真意があると思う。貸し借りはその時の分量よりもっと大きな意味があるもので、それが今後自分の首を絞めかねない。よくある話で、大人ならある程度言ってる事を理解して頂けると思う。

「助けようか」

→「お前の人生の片棒をつぐぞ、良くも悪くも」

人の提案に乗るような浮ついた人生を送っているつもりはない。性悪説、これに偏り過ぎてる自覚はあるが意外と間違っていないという確信もある。

提案になることの重みをよく考えて行動してほしい。


何かの「誘い」や「提案」をされた時、その方がする事によって得られるメリットをまず考えて欲しい。

思考の余地がないなら全部断ろう。

因果応報、自分のケツは自分でふけ。

他人を関わらせると余計に厄介になる可能性も考慮して。




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