「仕事」という視点で福島県富岡町を考察した話
まえがき
こんにちは、ごっちゃんこと後藤です。
春先、私たちトレイルヘッズ一行は福島県富岡町に視察に向かいました。
現地で見たものや感じたことをどう文章に綴ろうか考えを巡らせていたら、夏は過ぎ、いつの間にか秋になってしまいました。
この内容を綴るにあたって、ふと学生の頃に読んだ「仕事」に関する記事を思い出したので、うろ覚えのキーワードから遡って調べてみるとインターネット上にソースを見つけました。
これは世の中に存在する仕事を5つに分類したものです。今振り返ると必ずしも全てには割り振れないかな…と思ったりもしますが、概ねカバーできているのではないでしょうか。
たしか私がこの分類と出会ったのは、就職活動の真っ盛りの頃だったとぼんやり思い出してきました。
今回福島に訪れて、切っても切り離せない「復興」というテーマに対して取り組む人々とたくさん出会いました。そして並行して生み出される活動もたくさん知りました。
実際に福島を自分たちの脚で訪れ、話を聞き、事実を見たことで生じた「復興」という概念を「仕事」として捉えるのであれば、上記の5分類では何型の仕事にあてはまるのか?という問いに対しての考察を文字にまとめようと思います。
なぜ富岡へ?
そもそも私たちトレイルヘッズメンバーが縁もゆかりもない富岡を訪れることになったのは2つの理由があります。
一つ目は、メンバーと親交があり、様々なアートイベントのキュレーションを行い、現在は富岡町に移住して活動をする山本 曉甫(あきお)さん(以下:曉甫さん)からHINOKOや空間事業を手掛ける私たちトレイルヘッズに何かアイデアを考えて欲しいとお声がけを頂いたことがきっかけです。
二つ目は、現在トレイルヘッズで定期的に実施している環境へのリサーチ活動の中で、地球が抱える様々な環境問題について議論していた際に、福島の話題が浮上してきたことでした。
机上だけで議論をするよりも、まずは現地に行ってみないと分からないことがたくさんありそうだという声も上がり、ちょうどこのタイミングで、その二つの出来事が重なったことが今回視察に行った背景となります。
富岡に到着 -そこは美しい海を持つ街-
東京駅発の特急ひたちに乗って福島県富岡駅に到着したのは11時ごろ。東京駅からは3時間ほどで到着します。思っていたほど時間はかかりません。
到着後、駅から車で5分ほどの場所にある「時の海 - 東北」プロジェクトの事務所に向かい、ここでトレイルヘッズ一行の福島視察をアテンドいただく曉甫(あきお)さんと合流します。
曉甫さんもこの富岡町にアートを接点に移住してきており、震災の犠牲者の鎮魂と震災の記憶の継承、そして、これからの東北の未来を共につくることを願い協働するアートプロジェクト「時の海 – 東北」の代表でもあります。東京現代美術館にも作品が展示される宮島達男さんが、東北に生きる人々、東北に想いを寄せる人々とつくりあげています。
22.5m×40mのプールのなかで3,000個のLEDのカウンターガジェットを輝かせて、まるで静かに波打つ東北の海を想起させる作品に完成するそうです。
お互いの簡単な自己紹介を済ませ、「時の海 - 東北」の説明を受けた後、まず曉甫さんが私たちに見せたいと事務所から車を走らせて向かった先には、車窓いっぱいに広大な海が広がっていました。それも青々とした美しさを持った海です。福島県に対して綺麗な海のイメージが無かった私はこの景色にはある種の驚きを感じました。
日頃からサーフィンを楽しむ身としては見ているだけで気分が乗ってくる、櫛でといたような波が一定の間隔で砂浜を揺らしていました。
避難で街から住民が消えた日々を経た後の現在も、漁獲制限と資源保護の取り組みにより、獲れる魚は以前よりも体が大きく、この辺りは大物が釣れる釣りスポットとして釣り人からは注目もされているそうです。そんな富岡の海は震災が起きるまでは街のシンボルだったと、曉甫さんは教えてくれました。
実際これだけ綺麗な海があれば故郷の景色として人々に認識されるものでしょう。しかし、曉甫さんが地元の小学生に向けてワークショップを開催した際に「富岡町のイメージ」を尋ねたところ、かつての街のシンボルだった「海」を挙げた子供はほとんどいなかったそうです。
今の子供たちは震災前の富岡町の姿を知りません。
震災によって住民たちはこの地を離れ、誰もいない状態がしばらく続きました。人が戻った後も、海岸沿いには防波堤が立ち、震災前に海岸に広がっていた住宅街は防災林として、富岡を守る場所に生まれ変わりました。
海岸エリアに住宅が建ち並び、生活の一部に海が刻まれていた過去はもうそこにはなく、身近に海を感じる機会も少なくなり、街の景観だけではなく心の中にある景色も一変させたことを知り、このような変化を体験したことが無い私はやはりショックが隠せませんでした。
0→1マインドになる環境
富岡の町を実際に歩いてみると、不自然なくらいにまっさらな土地や、綺麗で新しい駅舎など見慣れないアンバランスさに気を取られ、やはり震災によって失われた側面にまず目がいき、震災の恐ろしい側面を感じざるを得ません。
しかし同時に、不思議な感覚も得ました。それは0から1となる、新しい奇想天外なアイデアが次から次へと浮かんでくることです。メンバー間でも歩きながら「こんなことができそう、あんなことができそう」とアイデアを発散しながら足を進めます。
冒頭でも触れた環境のワークショップもそうですが、トレイルヘッズでも今続々と新しいことに調整しようとしています。
して、新しいことに挑戦する時に0から1を作り上げること思考する01マインドは必要不可欠な要素だと私たちは考えています。
東京の摩天楼を歩いていてもなかなか得られないような、すっきりとした脳内に次々とアイデアが浮かんでくる感覚をそこで覚えました。
そしてこの感覚は、富岡だからこそなのではないかという仮説を筆者は持ちました。
震災は確かに多くを奪います。そして富岡町は建物や施設を失うというハードの面での喪失だけではなく、住む人々がしばらくの期間、街から避難しなければならなかった、即ちソフトの面での喪失も経験した世界でも珍しい事例を持つ地域です。
新しいことを始める時、既にあるものをどう壊すかという点から私たちは物事を捉えることが多いです。
クライアントと進める空間のプロジェクトも、わたしたちが主体となって進める新規の自社事業を立ち上げる時も
課題を見つけ出す
今すでにあるソリューションを壊す(変える)
新しい価値を生み出す
この流れが多いです。
富岡の町を歩いていると新しいアイデアが次々と浮かんでくるのは、震災によって壊さなければならないこと・変えなければならないものが他の地域と比較した時に少ないため「0からどう創るか」に脳みそを集中させることができるからこそ、新しいアイデアが生まれるのではないかと仮説づけました。
ビジネスシーンにおいて言い換えれば、既得権益の構造や市場のルールをどう変えるかという前提条件に縛られることなく、新しいアイデアを形にすることに集中ができるようなイメージです。
身を置く環境によって思考に大きな変化を感じた不思議な体験でした。
そんな私たちを曉甫さんが次に連れていってくれたのは、海岸から少し丘を上ったところに広がるワイン農園でした。
「富岡」x「ワイン」という意外性に満ちたキーワードに一行は戸惑いましたが、この産業はまさに震災後に1から始まった取り組みの一例でした。
丘を上がると、太平洋を一望できる灯台と民家が並び、その前にまだ控えめな果実の大きさをした葡萄がひっきりなしに並んでいました。
実は私自身、ワイン農園そのものを見学したのが生まれて時初めてだったため、他との違いまでを感じることができなかったのですが、山梨で実際にワインを作っていた方も移住して参画するほど、盛り上がっているようでした。
比較的温暖な気候を持ち、豊富な海の幸が採れるこの富岡の特徴を生かし、富岡町がワイン製造に力を入れ出したのは、避難が解除されて街に人が戻り始めてから。原発避難により一時誰もいなくなった町で、人の交流の活性化による関係人口の増加、そして定住人口の改善をミッションに立ち上がりました。
そして本格的にワイン作りを初めて7年、震災時に一棟だけ奇跡的に残った蔵を中心にワイナリーを建てる計画も進んでおり、クラウドファンディングでも多くの支援者を持つ大きなプロジェクトになっています。
実際に私が感じた不思議な感覚とこの取り組みは非常にリンクをしていると思いました。
きっと比較的温暖で、魚介が美味しい地であれば日本の他にもたくさん存在するかと思います。
0から1のアイデアが次から次へと生まれてくるこの街だからこそ、その強みに着目をして事業が生まれている様子を目の当たりにして、「復興」という「仕事」に対してのイメージが徐々に社会課題解決などではなくもはや「起業型」に近いと考察しました。
あの時の記憶を所々に残した空間設計 -OICを訪れて-
主要施設や役所を訪れた最後の目的地として訪れたのは、大熊インキュベーションセンター(以下OIC)という施設でした。役場と連携し、新規事業を実装するために100社以上の企業が入居するコワーキング施設です。
震災前に大熊町に二つあった小学校のうちの一つである、旧大野小学校の跡地をリノベーションして造られました。
主にエネルギー系やモビリティ系の事業を手がける企業の入居が多く、地元自治体と連携しながら研究開発をする目的が多いとのこと。
実際に視察した日もコワーキングエリアには常に誰かが仕事をしている状態で人の温もりを感じる場所でした。
ちなみに会員になると月額3000円で利用可能で、ドロップインだと一時間あたりなんと破格の150円で利用ができます。
施設内を歩くと小学校としてのアイデンティティやシンボルをうまく残してリノベーションしていたこと。教室の黒板や廊下の水道など、至る所に懐かしさを感じる作りです。
OICは地域住民にとっては公民館的な意味もあり、誰もがいつでも帰って来れるように、あえて内装を大幅に変えずに現在の形で運営しています。
それゆえに都内で用いる「コワーキングスペース」や「シェアオフィス」のような敷居の高さはいい意味で感じられず、全ての人に開かれた雰囲気を感じる空間です。
人の熱が盛り上げるイノベーション
施設内を一通り視察させて頂いた後にはOICのメンバーの運営メンバーの皆さんと話をする機会がありました。
話をしていると、この地で生まれ育ったメンバーだけではなく外から参加をしているメンバーの方もいました。
印象的だったのは、アラサーに差し差し掛かった筆者の両親と同じくらいの年齢と思われる方等からも
「若い人が活躍できる場所を作らないと街が賑やかにならない」
と真っ直ぐな姿勢で話す姿を目の当たりにし、富岡の「人」の強さを感じました。
環境がイノベーションの条件を揃えているだけでなく、人の強い想いがあるからこそ面白い取り組みが増えていく町であることを深く感じ取り、私は帰路につきました。
富岡で感じたこと
今回は「復興」を仕事として捉えて考察してみました。
福島を訪れるのが初めてだった私は、恥ずかしながら現地視察が決まった当初「そもそも避難区域は解除されているのか?」「原発の影響はどうなったのだっけ?」というような、どうしても原発の問題に引っ張られたことを考えていました。
私たちのような実際に体験していない外の人間には計り知れない苦悩や葛藤もあると思います。視察の内容をこのような記事に書きまとめることに悩んだ部分も少なからずありました。
しかしそれ以上に富岡の人のエネルギーは凄まじいものがあります。0から何かを作り上げることを楽しんでいる方々と出会い、ニュースやメディアだけで見る「復興」というステレオタイプとは遠くかけ離れた景色をそこで見ました。
視察前に勝手に思い描いていた、失ったものを取り戻す、社会課題解決型としての「復興」という概念からは遠くかけ離れています。
「復興」や「被災者」という枠組みで見るのではなく、その境遇にいるからこそ湧き出てくるチャレンジマインドを持った人が徐々に増え、今では街全体が新しい価値を0→1で作る起業型の仕事に取り組んでいる印象を受けました。
たった1日の滞在でそのように思わせてくれた富岡の街はやはり面白いです。
0を1にするためのヒントをたくさん与えてくれる場所の視察を通して、私たちも参画しているプロジェクトにおいて、よりこの知見を活かしながら、働くフィールドのデザインに挑戦していきたいと思った視察でした。
たくさんのお話を聞かせて頂いた皆様、本当にありがとうございました。